わが家にチョンマゲに二本刀をさしたサムライ姿の祖父の写真が残っている。祖父が
手にした写真の扇子には「文久二年癸戌(みずのといぬ)○○忠義 三十二歳」と書い
てある。これからみて写真は147年前の1862年に撮影されたものだ。つい最近まで写
真の銀板も残っていたが、転勤による引越しで残念なことに紛失してしまった。
今年は横浜開港150年である。これを記念して開港記念館で当時の横浜を撮影したス
イス人写真家の作品が展示されている。祖父の写真はそれから僅か3年後に撮影され
たものだ。当時祖父は徳川幕府直参の役人だったが、高い地位にいたわけでもないし
歴史上の人物でもない。
文久2年という年は、坂下門外の変があり、生麦事件で英国人が斬りつけられ、高杉晋
作らによって御殿山の英国大使館が焼き討ちされるなど、尊王攘夷の渦で物騒な時代
であった。祖父はそんな時代になぜ横浜へ写真を撮りにでかけたのかー。江戸には当
時写真師はいなかったとはいえ、汽車のない時代、横浜へ行くのは大変な頃だ。
僕は前から、この写真は誰が撮ったのであろうかーに関心があった。開港3年後である。
果たして日本人の写真師がいたのかどうか疑問に思っていたが、開港150年を機会に幕
末写真史を調べたら、日本の写真の祖といわれる下岡蓮杖がアメリカ人写真師ウンシン
(ジョン・ウィルソン)からカメラを譲り受け、この年弁天通りに開業した、とあった。祖父の
写真は下岡蓮杖が撮影したものに違いない。それにしても当時の日本人は写真を撮られ
ると魂を抜かれると敬遠していたというのに、祖父は自分の名前、年齢、撮影年まで残
している。祖父は明治32年8月、69歳で亡くなっている。
手にした写真の扇子には「文久二年癸戌(みずのといぬ)○○忠義 三十二歳」と書い
てある。これからみて写真は147年前の1862年に撮影されたものだ。つい最近まで写
真の銀板も残っていたが、転勤による引越しで残念なことに紛失してしまった。
今年は横浜開港150年である。これを記念して開港記念館で当時の横浜を撮影したス
イス人写真家の作品が展示されている。祖父の写真はそれから僅か3年後に撮影され
たものだ。当時祖父は徳川幕府直参の役人だったが、高い地位にいたわけでもないし
歴史上の人物でもない。
文久2年という年は、坂下門外の変があり、生麦事件で英国人が斬りつけられ、高杉晋
作らによって御殿山の英国大使館が焼き討ちされるなど、尊王攘夷の渦で物騒な時代
であった。祖父はそんな時代になぜ横浜へ写真を撮りにでかけたのかー。江戸には当
時写真師はいなかったとはいえ、汽車のない時代、横浜へ行くのは大変な頃だ。
僕は前から、この写真は誰が撮ったのであろうかーに関心があった。開港3年後である。
果たして日本人の写真師がいたのかどうか疑問に思っていたが、開港150年を機会に幕
末写真史を調べたら、日本の写真の祖といわれる下岡蓮杖がアメリカ人写真師ウンシン
(ジョン・ウィルソン)からカメラを譲り受け、この年弁天通りに開業した、とあった。祖父の
写真は下岡蓮杖が撮影したものに違いない。それにしても当時の日本人は写真を撮られ
ると魂を抜かれると敬遠していたというのに、祖父は自分の名前、年齢、撮影年まで残
している。祖父は明治32年8月、69歳で亡くなっている。