「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       助かった学童たち 再疎開への決断

2009-11-09 05:34:50 | Weblog
山梨学院大學の生涯学習センターからジャーナリストの目から見た戦争をテーマに
話をせよと依頼を受けた。その資料調査のため近くの図書館へ出かけたところ、偶
然にも僕の住んでいる東京の町の小学校が戦時中、甲府に学童疎開していて当時
の写真80枚がHP(coco.cococio.com/sokai/imdey)に紹介されていた。当時の疎開
学童の日常生活がよく撮れていて貴重な記録である。

この写真は当時「大日本写真報国会甲府支部」が疎開付添い教師の協力で市内に
疎開してきた各学校ごとにアルバムを制作”子供たちは、こんなに元気ですよ”と東
京の留守家族を安心させるため各学校へ贈ったものである。

甲府は昭和20年7月7日の空襲で市内の75%が壊滅、1200人もの犠牲者が出てい
る。HPで紹介されている学童寮も通学していた学校も焼け落ちている。甲府市内には
当時目黒、麹町,四谷区から約9000人の学童が集団疎開していたが、空襲の半月
前に近隣の山間部に再疎開していて、病気で市内に残っていた二人が直撃弾を受けて
亡くなった以外全員難を逃れている。

まったく幸運だった。当時甲府は敵機が富士山を目標に飛来するルートにすぎない、と
され空襲前日の「山梨日日新聞」は"甲府は背後に山を背負っていて天嶮の地だ”と武
田信玄の古事まで引用して安全だと書いていたほどだ。しかし、一方では敵機から空襲
を予告するビラが6月頃から投下されていたともいわれる。関係者が巷間の俗説を信ぜず、
再疎開を決断、近隣町村もいち早く受け入れくれたお陰で沢山の尊い小さな命が救われ
ていた。