「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

大東亜戦争聞き取り調査(2)敵性国人抑留所所長

2015-03-29 05:11:09 | Weblog
在京のインドネシアの会にはいつも顔を出し写真を撮っていた池上信雄さん(95)を励ます会が昨日、ごく懇意の有志だけであった。池上さんは戦争中北スマトラの山奥にあった、和蘭人など民間人を収容する「敵性国人抑留所所長の陸軍大尉であった。敗戦後、捕虜収容所や民間人抑留所関係の日本人は戦犯容疑で逮捕され、死刑などの極刑に処せられたが、池上さんは一度逮捕されたものの、抑留されていた和蘭人の嘆願書によって、釈放されたという珍しい経歴の持ち主だ。

30数年前、僕は池上さんと在日インドネシア大使館主催のインドネシア講習会で、机を並べて勉強した仲だ。当時、池上さんは大手ゼネコンを退社したばかりであったが、戦時中の南方の軍政を調査いしている、僕に対して、大勢の方を紹介してくれ、資料を提供してくれた。その時の話で、僕が今でもまだ覚えているのは、和蘭の抑留者から池上さんに対して釈放嘆願書が出たのは、一つには池上さんが英語ができ、和蘭人との意思疎通が出来たからだと、言われたことだ。池上さんは大正生まれの日本人には珍しく、大学時代、戦前都心にあった唯一の「井上英会話学校」に通って”会話”が達者だった。

戦後の、いわゆる連合軍BC級裁判で、旧蘭印地区12か所の和蘭法廷は、連合国中最も多い236人の死刑者が出ている。その中で一番多いのは捕虜収容所と敵性国人抑留所の関係者である。バタビア(ジャカルタ)法廷で死刑第一号になったS大尉も池上さんと同じ学徒出の大尉であった。起訴理由を見ると、捕虜を虐待したとあるが、S大尉が直接手を下したのではなかった。多分に報復的な裁判であった。

高野山には戦後の連合軍裁判で亡くなられた「昭和受難者」を祀る慰霊碑があり、毎年一回、関係者の間で法要が行われているが、車イス生活になるまで、池上さんは毎年かかさず法要に参加していた。池上さんは昨日の会を喜ばれ「パンジャン.ウムール」(長寿)の会をまた開こうと、言われていたが、車イスに載せ、会場までお連れする家族の方が大変である。