70年来の友に誘われて先日、秋まっ盛りの駒沢オリンピック公園を散策した。72年前の昭和18年4月、中学(旧制)に入学、勤労動員など戦中戦後の苦しかった、あの時代を共にした仲だ。かって紅顔美少年だった僕らは、白髪禿頭の老人になってしまったが、久しぶりに会えば、”オイお前”の昔ながらの間柄である。
昭和20年のちょうど今頃である。中学3年だった僕らは、やっと動員先の工場から学園に戻れたのに、再度、焼跡整理に動員された。5月の空襲で一面焼け野原になった第一京浜国道の旧品川区役所周辺の路肩に立って、焼けトタンなどを回収のトラックに積み込む作業だった。国道には進駐軍のジープやトラックが往来していた。敗戦国の子供が働く姿を不憫に思ったのであろう、時々、「ラッキーストライキ」などの煙草を投げてよこした。
緑の木々の間からもれる秋の日差しの中を僕は杖をつきながら友二人とゆっくりと散歩した。公園内には昭和39年の五輪の際使用した施設の一つなのだろう。若い華やいだ応援の声が聞こえてくる。僕らが少年だった頃はスポーツをやりたくとも道具や施設もなかった。昼休みの時間、焼け残った講堂の鉄骨の上で”鬼ごっこ”遊びをしていた友の一人が鉄骨の上から落下して顎に何針か縫う大けがをしたのを憶えている。
休憩所の中で持参した弁当を食べた。話は”過し方””行く末”の話題がとどめもなくあったが、友の一人が”オレたちは果たして2020年の東京五輪は観れるだろうか”と自問した。あと5年先である。「朝(あした)には夕べを謀らず」(左伝昭公元年)という諺がある、三省堂慣用句ことわざ辞典によれば、朝には夕刻のことは考えない”という意である。しかし、一方では「朝には夕べを謀られず」(李密陳情の表)という言葉もある。これは同じ辞典によれば”朝には夕方にどうなるか考えることはできない”という意味だ。80老の今の心境だ。
昭和20年のちょうど今頃である。中学3年だった僕らは、やっと動員先の工場から学園に戻れたのに、再度、焼跡整理に動員された。5月の空襲で一面焼け野原になった第一京浜国道の旧品川区役所周辺の路肩に立って、焼けトタンなどを回収のトラックに積み込む作業だった。国道には進駐軍のジープやトラックが往来していた。敗戦国の子供が働く姿を不憫に思ったのであろう、時々、「ラッキーストライキ」などの煙草を投げてよこした。
緑の木々の間からもれる秋の日差しの中を僕は杖をつきながら友二人とゆっくりと散歩した。公園内には昭和39年の五輪の際使用した施設の一つなのだろう。若い華やいだ応援の声が聞こえてくる。僕らが少年だった頃はスポーツをやりたくとも道具や施設もなかった。昼休みの時間、焼け残った講堂の鉄骨の上で”鬼ごっこ”遊びをしていた友の一人が鉄骨の上から落下して顎に何針か縫う大けがをしたのを憶えている。
休憩所の中で持参した弁当を食べた。話は”過し方””行く末”の話題がとどめもなくあったが、友の一人が”オレたちは果たして2020年の東京五輪は観れるだろうか”と自問した。あと5年先である。「朝(あした)には夕べを謀らず」(左伝昭公元年)という諺がある、三省堂慣用句ことわざ辞典によれば、朝には夕刻のことは考えない”という意である。しかし、一方では「朝には夕べを謀られず」(李密陳情の表)という言葉もある。これは同じ辞典によれば”朝には夕方にどうなるか考えることはできない”という意味だ。80老の今の心境だ。