敗戦を受けて成立した東久爾稔彦内閣は昭和20年10月7日、総辞職し、弊原喜重郎内閣が誕生している。僅か53日間の短命内閣であった。元外交官だった弊原氏は、連合軍占領下という難しい時期に国のかじ取りを任せられ、マッカーサー司令長官から婦人参政権、労組の奨励、教育、司法、経済の五大改革路線をたて続けに提示され、一方で年末までに軍国主義者の追放、財閥の解体、農地解放を行うよう指示された。しかし、結局対応できず、翌21年4月には総辞職している。
政治家にとっては大変な時期だったが、庶民の生活も過酷だった。僕ら中学生も焼跡整理に10月いっぱい動員された。東京のど真ん中でもまだ、トタンで囲んだ、掘立小屋に焼け出された住民が住んでいた。極端な食糧難で、配給は遅延され、やっと”応急米”としてサツマイモが配られた。亡母は三日にあげず、電車に乗って野菜の買い出しに出かけていた。亡父は体重の減り方が気になっていたらしく、日記の片隅に1週間ごとに体重13貫○○(約50㌔)などと記してある。
マッカーサー元帥が帝都入りし、日比谷の第一生命ビルを司令部にしたのは9月8日で、その頃から東京の町々に進駐軍の姿が多くなってきた。子供の目には兵隊のかぶる帽子が、日本の戦闘帽に比べてスマートに見え、初めて見る四輪駆動のジープに目を見張った。横浜の大桟橋へ行くと、兵隊が日本の人形をチョコレートやガムとチェンジしてくれると聞き出かけたりした。
「日米会話手帳」が9月に発売され、僅か3か月で300万部も売れた。僅か36ページの冊子で、僕も買った記憶があるが、内容はそれほど新しい内容ではなかった。僅か数か月前には”出てこい、ミニッツ、マカッサー、でてくりゃ地獄へ逆落とし”と蛮声をあげていたのを思うと、まさにコペルニクス的転回の時期であった。
政治家にとっては大変な時期だったが、庶民の生活も過酷だった。僕ら中学生も焼跡整理に10月いっぱい動員された。東京のど真ん中でもまだ、トタンで囲んだ、掘立小屋に焼け出された住民が住んでいた。極端な食糧難で、配給は遅延され、やっと”応急米”としてサツマイモが配られた。亡母は三日にあげず、電車に乗って野菜の買い出しに出かけていた。亡父は体重の減り方が気になっていたらしく、日記の片隅に1週間ごとに体重13貫○○(約50㌔)などと記してある。
マッカーサー元帥が帝都入りし、日比谷の第一生命ビルを司令部にしたのは9月8日で、その頃から東京の町々に進駐軍の姿が多くなってきた。子供の目には兵隊のかぶる帽子が、日本の戦闘帽に比べてスマートに見え、初めて見る四輪駆動のジープに目を見張った。横浜の大桟橋へ行くと、兵隊が日本の人形をチョコレートやガムとチェンジしてくれると聞き出かけたりした。
「日米会話手帳」が9月に発売され、僅か3か月で300万部も売れた。僅か36ページの冊子で、僕も買った記憶があるが、内容はそれほど新しい内容ではなかった。僅か数か月前には”出てこい、ミニッツ、マカッサー、でてくりゃ地獄へ逆落とし”と蛮声をあげていたのを思うと、まさにコペルニクス的転回の時期であった。