同じ集合住宅の階下に住む、大学2年の孫(男)が先日、ハロウイーンの夜ピエロの恰好して渋谷へ出かけたと老妻から聞いた。”あきれてものもいえない”といいたいところだが、物わかりのよい夫婦である。僕は”ふん”、”ふん”と聞くだけで、昔、孫と同じ年齢であった、昭和25年(1950年)のあの時代を想い出した。
昭和25年といえば、まだ都心部でも戦争の傷跡が残るバラック住宅が多かった。朝日新聞の連載小説「自由学校」(獅子文六)が話題となり、これが松竹と大映で競作となって二つと超満員の観客を集めた。映画の内容は、戦争が終わって平和になった夫婦が、お互いに自由勝手なな生活を始める、といったものだったが、僕は映画の中で、”自由”を求めて家出した主人公が、JR御茶ノ水(東京)駅近くの神田川の土手の上でホームレス生活していたのが印象に残っている。
僕はといえば大学のセッツルメント運動に参加し、東京の下町にあったキリスト教会で子供たちに英語を教えていた。焼跡の教会は進駐軍の払い下げのトタン屋根の”かまばこ”兵舎であった。イースターだか、クリスマスだか忘れたが、教会で、これまた進駐軍払い下げの中古衣料のバザーが開催され大盛況であった。戦後極端な衣料不足で、学生は一張羅の学生服だけ、おしゃれしたくとも衣類が買えなかった時代であった。
輸入された洋画を通じて、アメリカ人の生活がまぶしく、憧れを感じた時代であった。65年後まさかこんな飽食の時代となり、ハロウィーンで盛り場が仮装した若者で一杯になるとは当時想像も及ばなかった。平和な好い時代でsる。
昭和25年といえば、まだ都心部でも戦争の傷跡が残るバラック住宅が多かった。朝日新聞の連載小説「自由学校」(獅子文六)が話題となり、これが松竹と大映で競作となって二つと超満員の観客を集めた。映画の内容は、戦争が終わって平和になった夫婦が、お互いに自由勝手なな生活を始める、といったものだったが、僕は映画の中で、”自由”を求めて家出した主人公が、JR御茶ノ水(東京)駅近くの神田川の土手の上でホームレス生活していたのが印象に残っている。
僕はといえば大学のセッツルメント運動に参加し、東京の下町にあったキリスト教会で子供たちに英語を教えていた。焼跡の教会は進駐軍の払い下げのトタン屋根の”かまばこ”兵舎であった。イースターだか、クリスマスだか忘れたが、教会で、これまた進駐軍払い下げの中古衣料のバザーが開催され大盛況であった。戦後極端な衣料不足で、学生は一張羅の学生服だけ、おしゃれしたくとも衣類が買えなかった時代であった。
輸入された洋画を通じて、アメリカ人の生活がまぶしく、憧れを感じた時代であった。65年後まさかこんな飽食の時代となり、ハロウィーンで盛り場が仮装した若者で一杯になるとは当時想像も及ばなかった。平和な好い時代でsる。