「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

同時代を生きたある友人への弔辞

2015-11-13 07:30:59 | 2012・1・1
10年来難病で自宅で夫人の介護を受けていた友人のO君が今月3日、最後には胃がんで他界した旨、昨日、別の友人から電話で知らせがあった。O君が末期がんで治療薬も受け付けず、ただ痛み止めだけの寝たきり状態にある事は夫人からの手紙で知っていた。しかし、夫人からの手紙で、本人の希望で無理な延命や治療は求めず、自分なりの時間軸でゆっくりと療養するのを望んんでおり、電話や面会も遠慮されているのをる知り、ただ夫人へのお見舞いの手紙だけで済ませていた。

O君とは戦争中、旧制中学の2年から3年にかけて勤労動員で同じ工場で働き、戦争末期には千葉県の江戸川運河で、敵の本土上陸に備えて掘削工事に従事した仲だ。家を離れ農家に分宿して、毎日敵機の機銃掃射を受けながら運河の底から泥土をモッコに担いで運びだす重労働であった。いってみれば戦友仲間である。この体験から、戦後も僕らは普通のクラス.メート以上の友情で結ばれている。

僕らは昭和23年に中学を卒業したが、O君は家庭の事情から進学せず、同じ中学の先輩のバンドに入り、楽器運びをしながらドラムを叩いていた。戦後のラテン.ブームで彼の属するバンドも有名になり、時々彼の雄姿をテレビで見かけることもあった。それから20年近くお互いに忙しく会うことがなかったが、久しぶりに彼に会うと、軽飛行機の操縦免許をとり航空会社を経営しているという。そして、その傍ら、私立大学に入学して経済学を勉強しているとのことだ。確かその時彼はもう50歳を過ぎていた。

10年ほど前からO君は難病にかかり介護5に認定され、自宅で夫人の献身的なな介護を受けていた。夫人の手紙によると、晩年は医師、看護師、理学療養士のチームが月に8回も自宅往診してくれていた。電話を寄越した友人の話では、O君は樹木葬を望んでいたとのこと。僕は今、遠方に住んでおり、葬儀には出席出来ないし、香典のやり取りの煩わしさは僕以上に彼が知っている。そこで、僕もこのブログで彼を偲び弔辞にすることにした。合掌。