「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

一人だけだった、63年前同期入社の仲間を”偲ぶ会”

2016-04-24 05:45:48 | 2012・1・1
昨日、63年前新聞社にに同期入社し、副社長まで昇進した出世頭のK君を”偲ぶ会”に参席した。僕らが大学を卒業した昭和28年は、戦後の学制改革で旧制と新制とが同時に卒業生を出した年で、就職難、とくに若者に人気があった新聞社への門は、志望者が多く難関であった。それだけに各企業とも、この年の入社組は”花のニッパチ”と当時もてはやされていたものだ。

K君は旧制東大卒で僕よりは2歳年上、入社試験もトップクラスだった。地方支局で経験を積んだ後、僕らは1950年代後半、外信部で席を共にした。彼は文学部の卒業だが、科学にも造詣が深く、米ソ冷戦下での宇宙開発を担当、ソ連の人工衛星第一号発射成功にちなんで、長男に「宇平」と命名された。そのK君が、突然、販売局へ”左遷”された。当時、新聞社では編集局の記者が花形で、他の部門は軽視される傾向があった。

”左遷”の理由は彼が組合運動に熱心だったことが、たまたま変わった新しい経営陣の方針に触れたのだろう。人工衛星を担当していたK君は次の日から販売のトラックに乗って、新聞の拡張の仕事に従事した。しかし、K君は腐ることなく働いた。元々仕事熱心で優秀な男である。トントン拍子に出世して、系列のテレビ局の常務を経て、自社に戻り最後は副社長まで勤めた。

K君の”偲ぶ会”は200人もの参席者があり盛大であった。僕は昭和30年代、まだK君も僕も若かった頃、一緒に草野球をしたユニフォーム姿のチームの写真があったので”偲ぶ会”に持参したが、僕を除いて全員、鬼籍の人になっていた。無理もない。”偲ぶ会”に参列していた「宇平」君が60歳還暦に近い年齢などだからだ。