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僕が子供だった昭和10年代初めの頃、東京では節分の夕方になると、各家々から”鬼は外、福は内”の豆撒きの声がこだましたものだ。そして残った豆や座敷に散らばった豆を拾って食べた。せいぜい、そんなことが楽しみであって、とくにご馳走を作って食べた記憶はない。想い出にあるのは、町内にあった稲荷神社で大人たちが大きな鍋に甘酒を作り、これをリヤカーに積んんで太鼓を叩きながら町内の子供たちに配って歩いたことだ。今でもあの甘酒の味が忘れられない。
ずっーと遡って800年前の徒然草の兼好法師の時代には節分は追儺と呼ばれていた。その第19段「折り節の移り変り」にはこんな記述がある。「追儺より四方拝(元旦)に続くこそ面白けれ。晦日はいとう暗きときから松などともし、夜半すぎから人の門を叩き走り}、なにごとかと、ののしりて足を空に惑う」。兼好法師の時代には節分は旧暦の大晦日から四方拝にかけて行われていた、今思うと人迷惑な奇祭だった。
年々、昔からの伝統行事に代わって「バレンタイン」など横文字の他国の行事が盛んになってきた。その中で恵方巻は、数少ない昔の行事の掘り返しだ。商魂でもよい。忘れかけてきた伝統故事へのへの着目も満更意味のない事ではない。