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その理由は、メナド降下を事前に発表すると、パレンバン降下作戦に影響するという陸軍側の申し入れによるものだとされている。メナドへの降下は成功だとされているが、一部の降下部隊は友軍からの”同士討ち”により犠牲が出ている。それに、占領後押収した和蘭側の文書には、日本軍の落下傘部隊を前もって予想、住民に対策を呼びかけるビラ(写真)まで配れていた。
和蘭ばかりではない。戦争は情報戦である。日本側もパレンバン作戦に先立って、開戦前からパレンバンの石油基地への降下計画をたて、中野学校出の新穂(にいほ)智中尉を、日蘭交渉の一員としてバタビア(ジャカルタ)に派遣、交渉決裂後は、同盟通信(共同通信の前身)の記者に仕立てて、パレンバンに常駐させ情報を収集させていた。(新穂中尉はその後、ニューギニア作戦で和蘭側に戦犯として捕まり死刑を宣告され刑死されている)。
当時の新聞(朝日新聞)記事を見ると興味深い。パレンバン降下を伝えた記事の見出しは”落下傘部隊蘭印奇襲 スマトラ進駐 海軍部隊メナド攻略参加”と、大本営の二つの発表を並べている。ちなみに、メナド降下の際の記事の見出しは”蘭印に敵前上陸 セレベス島メナドを占領”とあるだけで、落下傘部隊については一切触れていない。