「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

金融封鎖から71年 戦中より苦しかった戦後の食生活

2017-02-04 07:52:26 | 2012・1・1
昨日、節分の事を書くに当たって、僕の記憶から戦中戦後節分の記憶が欠落しているので、亡父の残した日記帳に何か書いていないか調べて見た。改めて気が付いたのだが、大正時代からつけている父の日記帳は、昭和19年から23年までの5年間、愛用していた博文館の当用日記が入手できず、チャチな装幀の日記帳を使っている。そのため毎日を記すスペースが少ない。そのせいか、父の日記にも節分についての記述は昭和21年2月3日に”けふは節分。敗戦後の事でて豆撒きの豆もなし”とあるだけだった。

亡父の日記を読み直してみると、敗戦の20年から21年にかけてが食糧難のピークであった。粗末な日記帳のため、父は工夫して毎日の欄で書けなかった分を月末に一括して「補遺」として書いているが、21年2月の「補遺」には”農家の米の供出進まず、米の配給10日も遅れる。それも代替えの小麦、三食とも粗末な手製のパンばかり。体重減が心配”とある。この2月、当時の弊原内閣は、天井知らずのインフレ対策として銀行の予算封鎖の措置に出て、国民は世帯主月300円、世帯員一人100円の新円しか使えなくなった。僕も旧円札にシールを張った旧円札を憶えている。

亡父は当時60歳代。定年を終え浪人生活だったが、今と違って年金はなく、余生のために準備した家作も物価統制令で家賃が抑えられて僅かな額。一家は近くの工場の下請けとして手動のプレス器で内職をした。停電を縫って暗い電灯の下で僅かな現金を稼いだ。
旧制中学性だった僕の学校は21年5月から午前中だけの授業になった。戦争中の食生活も緊迫していたが、戦後すぐのこの時代がわが国にとって一番の危機だったのではないだろうか。

昭和天皇香淳皇后御歌「ララの品、積まれたるを見て、とつくにのあつき心に涙こぼれる」香淳皇后は天皇陛下と共に21年11月、ララ(米国のアジア民間救援団体)から贈られてきた食糧を横浜港へ視察したさいの御歌。横浜新港のはずれに建っている。僕もララの缶詰ソーセージやチーズで救われた一人である。