「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           地すべりと砂防ダム

2008-05-21 05:33:01 | Weblog
中国の四川大地震による土石流で復旧作業中の建設作業員200人が重機もろとも
押し流され死亡したという。大地震後の二次災害の怖さを改めて知らされた。平成
7年の神戸・淡路大地震でも、西宮市で地震に伴う地滑りで34人が亡くなっている。
僕はこの道の専門家ではないが、自然災害が起きるたびに”ダム不必要論"者が、ど
う災害を見ているのか素朴の疑問を持つ。

芦屋市の谷崎潤一郎記念館には重さ15トンの巨石が庭石として使われているが、こ
れは昭和13年7月の関西大水害の際、当時谷崎が住んでいた神戸市東灘区の庭に
土石流として飛びこんできたものだという。10数年前、JICAの研修のお手伝いで途上
国の技術研修員を連れて全国の砂防現場を視察した。この時はじめて六甲山系や桜
島の砂防施設をみて火山国、地震国としてやはりこのような施設の必要性がわかった。

インドネシアの古都、ジョクジャカルタにはJICAの協力でISDM(インドネシア火山地域総
合防災研究所)が、すでに35年も活躍している。実際に近くのメラピ火山の爆発や地震
後の土石流の阻止に役立っている。ここではSABO(砂防)がTSUNAMI(津波)と同じよ
うに一般的に使われている。

かって世界一であったODA(政府開発予算)の援助額が昨年度は5位に転落したという
ので、この増減をめぐって色々意見が出ている。こういう場合”声”が大きかったり、大向
受けの意見が採用されがちだ。”ダム不必要”論者は一度でよいから災害現場を視察
したらどうだろうかー。


       「長寿医療」制度の”マユツバ”

2008-05-20 05:27:10 | Weblog
”眉にツバをつけるとキツネやタヌキに化かされない、ということから人に
だまされないよう用心することを眉唾という”(三省堂・慣用句辞典)。僕が
住んでいる東京・区部の「後期高齢者(長寿)医療制度の保険料天引きに
ついて」の説明は、まさに”眉唾”ものだ。「(後期高齢者医療制度による)
4月ー6月分の納付はありませんが、7月以降の保険料に含まれる」とある。

僕の住む区部は今年4月から発足した新制度による保険料の天引きはまだ
行われていない。事務的に間に合わないという理由から10月まで延期され
た。その間の保険料支払いはどうなるのか心配していた。が、届いた区の
広報誌によると(1)20年度の保険額は7月に通知する(2)7月ー9月分は納
付書により納める(3)4月ー6月分は”納付はないが"10月分から、その分
を上乗せして天引きするとある。

"4月ー6月分は納付がない”といっておきながら実際は10月からその分を徴
集するわけだ。後期高齢者になると、複雑なことがわかりにくくなる。4月ー6
月分と7月-9月分とを何故区別するのかさえわからない。最初から何故保険
料の決定の関係から4月ー6月分は10月から徴集すると書かないのか。"納付
はない”などの言葉は余計だ。"眉唾だ”との誤解を呼ぶ。

枡添厚労相は"後期高齢者医療制度は基本的に市町村の問題だ”といってい
るそうだが、後期高齢者の不満の大半は、日常高齢者が接する市町村役人の
説明不足と高齢者に対する対応の悪さからきている。大方の後期高齢者は、
現在の社会保障制度の下では、出来る限りのことは仕方がないと思っている。
区の広報誌は"今後、区では"後期高齢者医療制度”を"長寿医療制度”の名
称に変更する”と後記していたが、なにか白々しい。


        撃ち落としたB-29と不発弾処理

2008-05-19 05:38:04 | Weblog
東京・調布市での戦争中の不発弾の処理作業をテレビで見た。戦争が終って63年
も経っているのに迷惑な話だ。幸い作業は無事終了したが、このために電車がスト
ップ、国道の交通も一時止まり付近の住民1万6000人が強制的に避難した。1個の
爆弾でこの騒ぎである。改めて"雨のように”降ってきた戦争時を想い出した。

調布市は戦時中、陸軍の調布飛行場と近くに中島飛行機製作所があったため、昭
和20年2月から8月にかけて15回も空襲を受けた。昨日、処理された1トン爆弾は状
況からみて4月7日午前、来襲して撃ち落されたB-29機”Mrs Titty Mouse"が積載
していたもののようだ。同機は硫黄島から初めて大型爆弾を積んで飛来したが、調布
上空で撃ち落された。日本側の記録では、第244航空隊所属の戦闘機「飛燕」が体
当りして落としたことになっている。

調布市内の布田駅近くの円福寺の墓地には、落ちてきたB-29の乗員10名と、機体
(主翼)に当って亡くなった8人の遺骨が埋葬されていたが、米兵の遺骨は戦後すぐ
進駐軍によって引き取られていったという。同機は現在の国嶺4丁目付近の田圃に
落ちたらしく最近も近くの防空壕跡から当時の米軍の酸素ボンベが発見されている。

5月23日深夜の空襲を僕も経験している。幸い焼夷弾を消した程度だったが、空から
降ってきたあの焼夷弾の不気味な音を今でも覚えている。この空襲でもB-29一機が
撃ち落され、大田区久が原の路上に落ちた。僕はわざわざその現場に行ったが、す
でに処理された後で、大きな穴があいていたのを記憶している。

あの東京大空襲下、B-29が我がもの顔に低空を飛行し、これに対して迎え撃つ飛行
機が少なく、僕らは切歯して口惜しがったものだったが、今回調布の不発弾処理で
図らずも当時の我が軍の奮闘振りを知った。
(体当たりした「飛燕」の飛行士は落下傘で無事脱出したとのこと。またB-29の乗員
一人も助かり、大森捕虜収容所に送られたあと戦後帰国したそうである)  












         東京から富士山が見えなくなった!

2008-05-18 05:51:52 | Weblog
昨日は孫の運動会だった。戦前、東京では運動会は秋だったので、新緑の下での運動会
はいま一つ僕らには季節的にピンとこない。いつも運動会になると想い出す一つの歌があ
る。”四方を緑に包まれて梢に高き富士の根を・・・"-これは60数年前、小学校で"赤勝て、
白勝て”と旗を振ったときの応援歌だ。

母校は昭和20年5月の空襲で焼失、今は廃校になってしまったが東京のJR山手線五反田
の駅近くにあった。その校歌にも"我がまなびやの窓押せば西に冨士のね、東にはしづくも
つどう海原の・・・”とあった。明治32年開校の荏原郡大崎町の風景を歌ったものだ。

孫の通う中学校は駒沢五輪公園の近くにある。娘も昭和40年代、この学校に通学して
いたが、その頃は遠く冨士も眺められた。が、今は冬のよほど晴れた日以外は望めなく
なった。明治大正時代には、東京の区部でも高台から冨士が遠望できた。都心の麹町
には「富士見」という地名や学校があるし、中野区には地名は消えたが地下鉄の駅名に
「中野富士見町」が残っている。

富士山は都心から西南西の方向㌔の地点にある。だから地名だけでなく各地に富士が
見えた名残として「富士見坂」が残っている。当時は恐らく「富士山」は人々にもっと近い
存在だったのだろう。そういえば"頭を雲の上に出し、四方の山を見下ろして・・・”で始ま
る、あの富士山の歌も最近、僕の周囲ではあまり歌われなくなった。

         福祉”助っ人”と異文化摩擦

2008-05-17 05:13:53 | Weblog
インドネシアとのEPA(経済連携協定)で早ければこの夏にはインドネシアから
看護師400人と介護福祉師匠600人が来日する。6か月の日本語研修の後、
各福祉現場に配属され、実務研修に入る。そして日本の国家試験に合格すれ
ば一人前の看護師、介護福祉師として日本人と同じ給料が与えられる。

急速な高齢化社会の到来で、特別老人ホームなどの福祉現場では人手不足
だから外国からの"助っ人”大歓迎だと思っていたらそうでもないらしい。厚労
省や国内の看護師団体などは”日本人看護師の処遇改善が先決”と反対なの
だそうだ。確かに福祉関係の仕事は、他業種に比較して重労働の割りに給料が
安い。そのために専門家が職場に居つかないとの声もある。

こんな日本社会の状況下で外国から"助っ人”を迎えて大丈夫なのか。すでに
研修制度では、問題が多発している。一番多いのは"研修期間中”の待遇であ
る。医療"助っ人”の場合、国家試験に通るまでの研修期間中もきちんと給料
面で合意が出来ているのかどうかー。額だけ聞くと、自国にいたときの数倍なの
で魅力に思うかも知れないが、それだけ日本での生活費も高い。

それと心配なのは異文化摩擦だ。昨日の小ブログで紹介したアリフィン・ベイ
先生もその著「インドネシアのこころ」(めこん社 1975年)の前書きで書かれて
いるが、初来日の日、裸で入浴させられ、人前で他人に裸をみせない回教徒と
して耐え難かったそうだ。60年経っても日本の社会のイスラム理解はほとんど
変っていない。逆にインドネシア人にとっては当たり前のことも日本の社会で許
されないことも多い。相互理解なのだが、難しい。


        広島被爆のインドネシア人学者

2008-05-16 05:01:44 | Weblog
「インドネシアのこころ」などの著書で知られる元筑波大学客員教授アリフィン・ベ
イ博士が今、ジャカルタ郊外タンゲランで病床にある。博士は昭和19年11月、大
東亜省(当時)の「南方特別留学生」として来日、翌20年8月6日、留学先の広島
高等師範学校(現・広島大学)で原爆にあった。マレーシアから来た同じ留学生
のサイド・オマール氏とニック・ユソフ氏の二人は原爆死している。

僕の知り合いの女性が今月、アリフィン・ベイ博士を見舞って帰国した。博士は現
在娘さんの経営する幼稚園近くの御宅で療養されているが、二回にわたる脳梗
塞で寝たきりの生活。それよりも知人が心配しているのは博士の猛烈な咳き込み
方だったそうだ。僕も博士が日本にいた頃から気がかりだったが、博士の咳き込
みは異常で、博士も”原爆でノドをやられた”といっていた。博士は被爆当時爆心
地から2㌔以内にいて、その後行方不明の学友を探して2週間広島に滞在していた。

今年3月厚労省の原爆症原爆症認定の新基準が出来、原爆投下時、爆心地から
半径3・5㌔以内で直接被爆し、投下後約100時間以上爆心地周辺にいた被爆者は
原爆症認定の該当者になった。博士のセキが被爆によるものかどうかはわからな
いが、博士の場合は新基準を満たしている。

博士は日本政府から日イの長年の友好に努めた功績で、勳三等瑞宝章を授与され
ている。被爆について博士はあまり口にしたがらないが、83歳という高齢で、多分
認定の新基準は知らないと思う。なんとか特例として認定できないものだろうか。

          ”ミャンマー人”と”ビルマ人”

2008-05-15 05:59:22 | Weblog
サイクロン被害の外国からの緊急援助受け入れをめぐってミャンマー軍事政権の評
判がすこぶる悪い。軍事政権はなぜ世界の国々や国際機関の善意を拒むのかー。
昔、僕らが大好きだった”ビルマ人”は”ミャンマー人”になってから人種が変ってしま
ったのだろうかー。いや、そうではない。軍事政権(Junta)の独裁が長すぎ,政権維持
に頑なになりすぎているのだ。

戦争中のビルマを舞台にした二つの本が戦後ベストセラーになっている。一つは竹山
道雄の「ビルマの竪琴」もう一つは会田雄治の「アーロン収容所」である。「ビルマの竪
琴」は戦後二回も市川昆監督のメガフォンで映画化されている。少し戦争中の日本軍
政に関心があれば、1988年のクーデーターで倒れるまでのビルマの指導者、ネ・ウイン
将軍が旧日本軍に協力したBIA(ビルマ独立義勇軍)の一員で、首都ラングーン(当時)
の陥落に功績のあったタキン・シュモンであることを知っていた。

僕はビルマ問題の専門家ではないが、ネ・ウイン時代の昭和58年、ビルマの技術研修
員と一緒に三週間、日本国内を旅した。彼らは礼儀正しく真面目で、従軍世代の先輩
たちがビルマ”メロメロ”になるのがわかった。

先日BBC放送をテレビで見ていたら「ミャンマー」ではなくて「ビルマ」の旧名を使用して
いた。宗主国だから旧名をつかっているのではないようだ。米国の一部のマスコミも「ビ
ルマ」のままだ。現ミャンマー軍事政権の独裁に対する反対意思表示だと聞いた。わが
国もどうだろう。軍事政権が依然として独裁を続けるならば、欧米にならって「ビルマ」の
旧名に戻したらどうだろうかー。

     救援活動 ”一分早ければ、一人多く助かる”

2008-05-14 05:57:46 | Weblog
ミャンマーのサイクロン被害についで今度は中国の大地震である。被害は四川省な
ど8省に及び、すでに1万2000人が死亡、震源地のチヤン族自治州では2万3000人
が生き埋めという報道もある。広い国だから被害はさらに広がるかもしれない。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災では、東京、横浜を中心に被害は死者行方
不明者14万人を越す大災害だった。これを体験した人もだんだん少なくなってきた。
昔、よく古老から聞いた震災の話の中に外国の救助の話があった。特に震災直後、
米国が救援物資をいち早く沢山積んで芝浦海岸に陸揚げ、テント村を作って被災民
を助けた話は有名である。

当時の米国の大統領は第30代のJ・C・クーリッジ氏だった。彼は8月に就任してまも
なくだったが、自ら義援金と救援物資を国民に呼びかけ”一分早ければ、一人多く助
かる"と訴えた。

ミャンマーの軍事政権はいぜん外国からの救援要員の入国を拒んでいるようだ。国民
投票の時期に当って変な外国の干渉があってはという不信感かららしい。が、6万人も
国民が死亡、ライフラインも寸断されている。”一分遅れれば、一人が犠牲になる”状態
である。

中国政府は温家宝首相が現地で陣頭指揮をとっている。北京五輪を前にしての大惨事
だ。”一分早ければ、一人が助かる”僅か数日前、中国との間に戦略的互恵関係を謳い
あげたわが国の救援体制がみえない。友好関係には戦術も必要だと思うがー。

           ラスクと五家宝

2008-05-13 06:25:23 | Weblog
先日、友人の奥さんから”「日本一美味しい」ラスクです”とお土産を貰った。
他人にプレゼントする時の言葉としてはオーバーな気がしたが、ラスクの袋
には「合言葉は日本一美味しい」と印刷してあった。多分ネットで取り寄せて
くれたものだが、しゃれている。味が日本一であるかどうかは確かめようがな
いがキャッチフレーズは日本一だ。

幼かったときの原風景である。”カチカチボンボン”と鳴る柱時計の横の茶箪
笥の手の届かない上に赤いラスクの四角いブリキの箱が載っていた。戦争が
始まっても、まだ物があった時代の想い出である。当時の東京のサラり-マン
家庭ではビスケットとならんでラスクが”三時のおやつ”としてかなり普及していた。

ラスク(rusk)は欧米では幼児の離乳時にミルクに溶かせて食べるお菓子だと
いう説もあるが、一方ではガーリックなどをつけて食べるビールのつまみでも
あるようだ。が、その発祥は古くなり、固くなったパンの有効利用ではなかった
のではないだろうかー。

わが国でも干飯(ほしい)を利用した伝統のお菓子がある。関東地方では熊谷、
加須(埼玉県)などの名物「五家宝」である。水戸では「吉原殿中」と呼ぶ。どちら
も発祥は干飯のようだ。昨日、老妻が秩父へ日帰旅行で行き土産に「五家宝」
を買ってきた。「ラスク」も「五家宝」も素朴な味だ。食糧自給率が40%を割ったと
のこと。古くなったパンや干飯にも目をむけよう。少し考えすぎかな。

         69歳で大學を卒業した友人

2008-05-12 05:16:34 | Weblog
昨日、旧制中学時代の友人Y君を見舞った。彼はここ数年脊髄の難病で自宅療養を
している。彼は僕の尊敬する友人の一人だ。何よりも人生に対して前向きで努力家。
69歳で大學の法学部国際比較法学科を卒業した。69歳といえば普通は第一線を卒
業して孫の面倒をみているご隠居さんの歳だ。

僕らが中学を卒業した昭和23年は、まだ街に焼跡が残り、混乱の時代だった。食べ
てゆくのが精一杯で、僕らの仲間でも昼間学校に来て、夜は進駐軍のキャンプで働
いたり、休みに闇市で”雑炊売り”の手伝いなどしていた。Y君もその一人で、家の近
くの商店の御用聞きをしていたそうだ。とても家庭の事情で進学などできず、御用聞
きで知り合った学校の先輩のつてで、あるラテンバンドの楽器運びに就職した。戦後
の20年代から30年代にかけてラテン音楽が盛んで、彼はそこでドラムを習い、NHKや
国際劇場の舞台にも出演した。

昭和の終わりごろ彼は、その晴舞台から降りて別世界にとびこんだ。彼はまず大検
(大學入試検定試験)を目指して勉強、これに合格すると今度は小型飛行機操縦免
許をとって会社を設立、インストラクターになった。

その後、彼は一念発起して予備校に通い65歳で大學に合格した訳だが、やはり無理
がたたったのか、脊髄の難病に冒され、現在奥さんの手厚い看病で自宅療養している。
身体障害者2級の認定を受けているから、ほとんど身体も動かせない。でも彼はいつも
人生に対して前向きである。リハビリにも一生懸命だ、一日も早い回復を願っている。