「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          Always  ドバイの夕日(3)

2009-05-11 06:41:21 | Weblog
昭和37年当時、日本人の99%がドバイについて知らなかったと思う。僕らもドバイ
の首長とインタービューしても記事にはならないと思っていた。だから多分、軽い
気持ちで、正式なアポイントもせず、英国のドバイ機関を通じて会見を申し入れた
ような気がする。が、ドバイの"建国の父”といわれる故ラシッド首長は気軽に僕ら
と会ってくれた。

ラッキーなことは当時ドバイに日本語のわかるインド系住民がいたことだ。彼は自
分の銀行の仕事を終えた午後、僕らの取材を手伝ってくれた。彼は戦前5年ほど
神戸の商社に勤めたことがあり、日本大好き人間であった。今思うと、僕らは現地
の事情を知らず、強引にぶしつけな取材もあったが、住民は快く親切にこれに応じ
てくれた。同行のKカメラマンが数百枚もの写真がとれたのもこのお蔭である。

Kカメラマンの写真展は現地で大変な反響を呼び、初日のテープカットの日には300
人が押し寄せ連日盛況である。翌日の湾岸最大のアラビア語紙や英字紙はこの模
様を大きく取り上げた。僕らが想像した以上に写真展は大成功を収めている。連日、
"写真に祖父の姿が写っている”"渡し舟の女性は亡くなった母だ”といった類の情報
が寄せられている。

今回のドバイ滞在の最後の日、僕は孫から頼まれたUAE(アラブ首長国連邦)サッカー
チ-ムのユニフォームが、どこで買えるのか、ホテルのフロントに尋ねたら、なんと見ず
知らずのフットボール連盟の方からユニフォームなど一式入ったリュックがプレゼントされ
た。頂いたからではなく、48年も今も客を厚く遇する気持ちがある。"3丁目の夕日”の時
代日本にもあった人間同士の暖かい気持ちである。(終わり)
(写真はKカメラマンの写真展を報ずるアラビア紙)




         Always ドバイの夕日(2)

2009-05-10 05:44:23 | Weblog
僕らが最初にドバイを訪れたのは昭和37年11月であった。当時ドバイは英国の保
護領「トルーシャル・ステーツ」(Trucial States)7土侯国の一つで、砂漠の中の
小さな中継港にすぎなかった。今でこそ超高層のビルが林立し五つ星の豪華なホ
テルが50幾つもあり、室内にスキー場や世界一の水族館まである超セレブなショッ
ピング・モールを持つ近代国家である。が、僕らが訪れた48年前は二階建ての8部
屋しかないホテルだけで、僕らはこの2号室に宿泊した。ここを拠点に僕らはラシッド
首長にインタービューしたり、ゴム草履をはいて砂漠の中のスーク(市場)や給水場
へロバに乗って水を買いにくる住民の姿をカメラのレンズに収めた。

昭和37年といえば、まだ日本でも東京五輪前で、新幹線も新宿副都心の高層ビル
群もなく東京タワーが出来たばかりの"三丁目の夕日”の時代であったが、すでにある
程度のインフラは整備されていた。だが、当時のドバイはそれ以前で、町の中のク
リークの両岸を結ぶ橋は一つもなく、手漕ぎの渡し舟で住民は行き往きしていた。電
気は一定の地区しか配電されておらず、水も配水所までロバに乗って買いに来ていた。

ほとんど半世紀も前に1週間滞在しただけの小さな国の小さな町にすぎないが、なぜ
か僕らには今でもこの町が忘れられない。一つには今のような奇跡の発展をとげた事
にもあるが、それ以上に忘れられないのは住民の気持ちである。"三丁目の夕日”の
制作者が映画の中で訴えたかった、あの人間の持つ暖かい気持ちである。この気持ちが
僕らを捕らえてやまなかった。(故ラシッド首長の写真展会場での写真)

(続)

           Always ドバイの夕日(1)

2009-05-09 06:22:39 | Weblog
5か月ぶりにドバイを訪れた。この間、世界規模の不況の波で、さすがのドバイも
崩壊した。ドバイの夢の計画も砂漠の蜃気楼にすぎなかった、といった報道が日
本のマスコミを賑わせた。本当にそうなのだろうか。48年前(昭和37年)の取材の
さい同行のKカメラマンが撮った写真が縁で招待を受けた僕は、たった3泊の旅だ
ったが、ドバイの現実をかいま見てきた。以下はその印象記。

ドバイはこれから6月にかけてが、1年の中で一番暑い時だという。陽が沈みやっと
暑さがおさまった頃、僕はホテル5階のレストランのバルコニーの椅子に腰掛け、グ
ラスを傾けようとしたが、とても耐えられない、暑さではなく、近くに建設中のホテル
の工事現場から響いてくる騒音である。午後8時をとっくに回っているのにだが。

5日はむこうは休日ではない。普段の火曜日なのだが、写真展のオープンセレモニー
の会場横のショッピング・モールは昼間なのに買物客がある。高級ブランド品を売って
いる店ばかりなのだが、信じられない。僕らが泊まったホテルはマリーナ地区の高級
ホテルだが、外国からの観光客は11月の訪問の時と同じ、減っているようには見られ
ない。真っ赤に日焼けした欧米人が楽しそうに休日を楽しんでいた。

でも不況は不況のようだ。観光の中心地であるクリーク(入り江)まで乗ったタクシーの
運転手は観光客の数が減ってきたとこぼしていた。街中を走っても工事をストップして
いるように見える工事現場もあった。それでも外国からの出稼ぎ労働者を運ぶ朝晩
の風景は、僕の目には前回昨年11月と同じように見えた。
(続)

         半世紀前のドバイ写真展

2009-05-03 05:33:08 | Weblog
人間長生きすると思わぬ幸運に恵まれる。今日から僕は昨年11月についで再度、
ドバイ首長国のアハマッド殿下(エミレーツ航空会長)の招待を受け、同国を訪れ
る。約半世紀前の昭和37年11月、独立前のドバイを取材で訪れた際、同行のKカ
メラマンが撮った写真の展示会が5日から26日まで催され、これに招待されたわけ
だ。
37年といえば日本も東京五輪前で、高度成長が始まったばかり”Always 3丁
目の夕日”の時代だ。まだ高層ビルもなく新幹線も走っていなかった。東京も当時
に比べれば大変な変わりようだが、ドバイの変貌はその比ではない。半世紀前のド
バイには僕らの泊まった二階建てのホテル(部屋数8)しかなかったが、今や五つ
星のホテルだけでも50幾つ、1500室の豪華なものもある。

今はケータイで簡単に写真が撮れる時代だが、半世紀前は日本でもカメラはまだ貴
重品であった。いわんやドバイでは一般には普及されていなかった。従って当時の
町や風俗を写した写真は、ほとんど残っていない。展示されるKカメラマンの写真
の中には、観光以外には姿を消した鷹匠や手漕ぎの渡し舟などもある。

在留邦人の話では、Kカメラマンの写真は、日本でいえば外国人が撮った鎖国時代
の写真に匹敵しているとの事。オープン前からドバイでは大変な人気だという。写真
展がわが国とドバイとの友好関係に役立てば記者冥利につきる。

(小ブログも8日まで休みます)


     外国人介護・看護師受け入れ事業は慎重に

2009-05-02 05:23:04 | Weblog
インドネシアとのEPA(経済連携協定)に基づく同国からの介護・看護師受入れ事業は
今年で2年目に入るが、これを仲介している国際厚生事業団によると、今年同事業団
が予定していた800人に対し、日本の病院・施設からの受入れ希望は今のところ360人
で、半分にも達していないという。すでにインドネシアでは派遣者の選考を終え、11月
の来日に向け待機中だとの事だ。

何故、日本側の病院・施設がインドネシア介護・看護師を希望しないのか。彼らの派遣
現場での評判は決して悪くはない。どうも日本側の制度そのものに問題があるみたいだ。
その第一は、期間内に日本の資格試験に合格しなければ帰国させる制度。このため受入
れ側は、渡航費のほかに彼らに日本語を学ばさせなければならい。これがかなりの費用
負担になっている。さらにここへきての不況で、これまでこの職種を敬遠していた日本人
の希望者が増えてきたのも起因しているらしい。

僕は過去の体験からこの事業には賛成ではなかった。言語や文化の違いからくる相互理解
の難しさを痛いほど知っている。いわんや人命にも関係のある仕事である。経済連携で片づ
けられる問題ではない。

とくにインドネシアでは旧日本軍が戦争遂行のため労務者を募集した。その数は100万人
(インドネシア側の主張)ともいわれ、その過酷の労働から今でも”Romusya"というインドネ
ア語が残っているほどだ。それだけに、たんに"採算にあわない”というだけで一方的に約束
を破ってはいけない。慎重に対応してもらいたい。











           豚には責任はないけれど

2009-05-01 07:01:58 | Weblog
WHO(世界保健機構)が新型インフルエンザの警戒レベルフェーズ5に引き上げた。
最高レベルが6だからペンデミック(大流行)一歩手前という非常事態だ。その直後
わが国でもカナダ帰りの横浜の高校生に感染の疑いが出てきた。素人には何故"豚
インフル”と呼ばれるのかよく解らないが、国際的には「Swine influenza H1N1)と呼
ばれている。

Swineは豚の集合的あるいは文語的な意味だと辞書にある。英語には他に豚という
表現には、Pig,Hog,Boarなど色々あり、厳密には雌雄、体重,去勢しているかどうか
などで違い、さらに豚肉はPorkである。西欧人(キリスト教徒)がいつから豚を食する
ようになったのか知らないが、このように幾つもの表現があるのは彼らが昔から豚を
好んできた証拠かもしれない。

これに対してイスラム教徒の聖典「コーラン」には、モハメッドが「お前たちに禁じられて
いる食物は死獣の肉,血、豚肉」と具体的に名前をあげて豚肉を食べるのを禁じている。
モハメッドが何故豚肉を禁じたのか理由はわからないが、それだけの理由があったので
あろう。

豚肉そのものを食べても危険ではない。が、朝日新聞によると「インフルエンザの歴史
をみると、大流行の影に豚」があったそうだ。人,鳥のウイルスの混ざる場にあるようだ。
教祖、モメッドは、そのへんをお見通しになって教徒に禁じたのかもしれない。豚には直
接関係はないのだが。