「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

大東亜戦争と「ブンガワン・ソロ」の作詞・作曲・歌手の死(1)

2010-05-21 09:43:11 | Weblog
インドネシアの名曲「ブンガワン・ソロ」の作詞・作曲・歌手のゲサン・マルトハルノさん
が亡くなった。92歳の高齢であった。日本人の愛好する外国の歌は、ほとんど欧米
生まれが多いのだが、この歌は唯一、東南アジアがルーツで、しかも戦争を介して
半世紀以上にわたって日本人の間で歌い継がれている。

僕はちょっとしたことから、この歌にかかわり、ゲサンとは前後10回以上お会いしてい
る。最初の出会いは1966年(昭和41年)10月、当時勤めていた新聞社の日曜版の特
集記事「世界の歌」の取材の時だった。「ブンガワン・ソロ」は戦後まもなくの1947年、イ
ンドネシアから復員してきた藤山一郎がレコード化し、同時に松田としもラジオで歌い大
ヒット。その後も小林旭、都はるみ、美空ひばりなどもカバーしている。

僕は東京の本社から指令を受けた時「ブンガワン・ソロ」はインドネシアの民謡だと思って
いた。藤山一郎も松田としも民謡として歌っている。ところが、調べてみると、昭和19年
版の「ジャワ年鑑」の現地住民知名人録には「ゲサング(Gesang)26歳、ブンガワンソロ
などの名作曲家「ビンタン・スラバヤ」楽団所属」と記述してあった。もちろん、僕の記事
には、ゲサンを作詞・作曲・歌手として紹介した。

次に僕がゲサンと再会したのは、それから14年も経った1980年1月、北海道の札幌雪祭
の時であった。当時僕は札幌の民放に勤務しており、フジテレビ系の番組「三時のあなた」
の中で、わざわざゲサンをインドネシアから呼び、松田としと一緒に雪祭会場で「ブンガワン・
ソロ」を歌って貰った。(写真は札幌歓迎会場での松田としさんとゲサン氏)

       読めても書けない常用漢字に抵抗

2010-05-21 04:49:48 | Weblog
5年にわたって審議されてきた「改定常用漢字表」がようやく文化審議会国語分科会
で承認され発表になった。1981年に制定された常用漢字1945字に新たに196字が加
わり、逆に5字が削られて2136字となった。この新たに追加された196字を見てショッ
クを受けたのは僕だけではないだろう。読むことは出来ても書けない字がいくつかある
ことだ。

僕ら昭和1ケタ生まれ世代は漢字については、戦後すぐの1946年に制定された当用
漢字で教育を受けてきた。とくに僕の場合は新聞社勤務が長かったため、厳しく当用
漢字を順守するよう、しつけられてきた。その結果であろうか、同じ世代に比べて漢字
の語彙が少ないような気がする。

戦前の小学校や中学(旧制)の国語、漢文教育では当用漢字などといった漢字制限
はなく、部厚い漢和辞典を日常的に使い、漢字の画数から意味を調べたりしていた。
また、漢字の書き取り試験もたびたびあって勉強していた。だから戦後当用漢字だけ
で教育を受けた世代よりも漢字の知識はあると思う。

ところがである。今回追加された196の漢字の中には、読めても書けなくなっている字
がいくつかある。長い間当用漢字でならされていたため、書けなくなってきているのだ。
例えば、憂鬱の欝、軽蔑の蔑、顎、剥ぐなどなど。審議会は答申の中で”すべての漢字
は手書きする必要はない”としている。情報機器の普及で"書く”時代から"打つ”時代に
変わってきており、問題はないのかもしれない。しかし、古い世代の僕らにとっては、なん
とはなく抵抗があり淋しい気持ちもする。

      旧日本軍の「鉄道遺産」の再建

2010-05-20 06:49:17 | Weblog
インドネシアで発行している邦字紙「じゃかるた新聞」(5月18日)の見出しに
”(インドネシア)国鉄が歴史遺産再建へ 日本軍が運行した鉄道 ぺカンガ
ルーパダン”というのがあった。有料HPなので、残念ながら内容は読んでい
ないが、インドネシアに関係している日本人でも果たして何人、この歴史遺産
のことを知っているだろうかー 。

この「歴史遺産」の鉄道は正確にはスマトラのマラッカ海峡側シアク河の川港
ぺカンガルからインド洋側の内陸の町、ムアラまでの220㌔間に建設された。
大東亜戦争中の昭和18年1月、日本軍(第25軍)の兵員と物資を陸路運搬す
る目的で建設され、測量開始から僅か2年8か月で完成した。映画「戦場にか
ける橋」で有名な泰緬鉄道にちなんで”第二の泰緬鉄道”とも呼ばれ、建設に
は泰緬鉄道建設にも参加した鉄道第9連隊が従事、オランダ軍捕虜や現地の
労務者を使用した。酷暑と劣悪な労働条件下のため多数の犠牲者が出たため
戦後になって田辺盛武・第25軍司令長官らが責任を問われ処刑されている。

日本では一般にはスマトラ横断鉄道とも呼ばれているが、皮肉なことに鉄道は
日本が負けた20年8月15日に完成したため、ほとんど使用されなかった。戦後
はインドネシア独立戦争の混乱の中で放置され、いつか線路も撤去された。今
は沿線には昔の跡かたもないが、NASAの100万分の1の航測図には昔の跡が残
っているという。

昨夜東京でユスフ駐日インドネシア大使の送別会があった。いつもこの種の会合
には顔を出すM氏は見えなかった。M氏は泰緬、スマトラ二つの鉄道工事に従事
した方だが「歴史遺産」再建のニュースを伝えると、先人たちの苦労が報われれば
と語っていたが、あまり過去には触れたくないように伺われた。

       口蹄疫 大丈夫かな鳩山総理の口約束

2010-05-19 05:43:45 | Weblog
宮崎県で家畜の伝染病、口蹄疫の被害が拡大、11万頭の家畜が殺処分の対象となり
東国原県知事は"非常事態”を宣言した。一方、鳩山総理はこれに先立ち、自ら解決に
乗り出し、自分を長とする対策本部を発足させた。発生から1か月近く経っており、被
害の規模からみて遅きにしっした感じもする。総理は本部長就任にあたって「大丈夫だ。
”しっかり”政府がやるから」と約束した。国民はもちろん、これを信じたいが、果たして
大丈夫なのだろうか心配だ。 

”しっかり"は鳩山総理の口ぐせのようだ。普天間基地移設問題の時でも何度かこの言葉
を使っているが、約束の5月末が近づいてきても、いっこうに”しっかり”決着解決のメドが
みえてこない。

鳩山総理はどうも問題を完全に部下にまかせられない性格なのだろうか。普天間問題は本
来平野官房長官がとりまとめ役だったはずだが、いつのまにか自分で抱え込み、あげくは
自分の発言で自分の首をしめている。口蹄疫対策もそうだ。4月、口蹄疫発生直後に赤松
農水相を対策本部長に任命したばかりではなかったか。その赤松氏を差し置いて自分が本
部長に就任したのは何故か。さきの連休中、10日間も外遊していた閣僚には任せられない
というのであろうか。

鳩山総理の指導力も心配である。国の中央と県との関係もどうなっているのか判らないが、
”非常事態宣言”が、対策本部長の総理ではなくて、県知事から出ているのも理解できない。
総理の指導力の無さを見越して県知事が先制行動に出たのであろうか。いずれにせよ政府
全体にタガのゆるみを感じる。

       ♭ バラが咲いた バラが咲いた

2010-05-18 05:43:38 | Weblog
        ♭ バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが
           淋しかった僕の庭に バラが咲いた
          たった一つ咲いたバラ 小さなバラで
            淋しかった僕の庭が明るくなった
               (作詞作曲 浜口庫之助)

淋しかった庭に咲いバラは僕の庭ではなく、隣家の庭(写真)だが、真っ赤なバラだけで
はなく、白いバラ、黄色のバラも咲き始め、道行く人の目を楽しませてくれている。

昔、学校で習った「徒然草」だっただろうか家のたたずまいから住人の気持が忖度できる
という文があった。地価の高い東京では、建築基準いっぱいに家を建て,隣家のように余
裕のある庭を持つ家は少なくなってきた。

「♭バラが咲いた」(唄マイク真木)が流行したのは、昭和41年であった。僕はこの年は海
外勤務だったが、何故かこの歌を知っている。歌詞がやさしくメロディもフォーク調で唄いや
すいからであろう。時代は東京五輪が終り高度成長に入った頃であった。東京ではそろそ
ろ光化学スモッグが問題視され、我が家では小学生の長男が小児喘息で病院通いをして
いた。この歌は、こんな時代背景の中で、人々の自然への憧れの気持ちの表現なのかもし
れない。もうあれから40余年の歳月が流れている。

  

          83歳のプロ野球解説者

2010-05-17 05:31:44 | Weblog
先日ヤクルトとソフトバンクのセパ交流試合のナイター中継をラジオで聞いていたら
解説者の関根潤三氏(83)の懐かしい声が流れてきた。関根さんは僕とほぼ同世
代で、法政大学からプロの近鉄パールズ(こういう球団もあった!)に入り、投手で
四番打者として活躍した。投手で50勝、打者で1000本安打した選手はプロ野球
記録だそうである。

昭和24年10月、マッカサー連合軍司令官の招待で、当時サンフランシスコにあった
シールズというAAAのチームが来日、読売巨人軍など日本のプロ球団と試合をした
が、どこも力が違い歯がたたなかった。が、最後にエギジビジョンとして東京六大学
チームと試合した。これも4対3で負けはしたものの延長13回まで持ち込む好試合で
あった。この時好投したのが関根潤三さんだった。

当時僕は大学1年だったが、級友の中には後楽園球場でコーラー売りのアルバイトを
したのを覚えている。コーラが国内で売られたのは、この時が初めてである。僕も一本
買って飲んだが、薬くさくてあまり美味しいとは思わなかった。もう60年も前、まだGI
(占領軍の兵隊)が銀座の街角にたむろしていた時代だ。

こんな時代にサンフランシスコ・シールズ相手にプレーした関根投手が、いまなお現役
の野球解説者をされているのは驚きである。政治家では困ることがあるが、その道を極
めた方だ。いつまでも元気で活躍されることを祈っている。


        独り暮らしの年寄りの閉じこもり

2010-05-16 05:25:44 | Weblog
総務省の2010年「高齢社会に白書」によると、独り暮らしの高齢者の三割以上が
終日、回りと会話をしないという。ショッキングな報告である。なかでも男性の高齢
者の場合は41・2%が周囲との会話が電話やメールを含めて2-3日に1回以下
だというのである。

幸い僕の周囲にはこうした不幸な老人はいない。昨日も2か月ぶりにスペイン協会
の文化の集い「ドンキホーテ」に顔を出したが、この会には僕より高齢な先輩が4人
もいる。Yさんは大正9年生まれ、今年90歳、終生独身だが、見た目には僕より若
く見える。

会を主宰するKさんも80歳である。毎月、この会を準備し、自分で調査された過去1
か月のスペイン語圏のニュースをコピーして配布してくれる。この会のよい事は参加
者一人一人に3分間の近況報告のスピーチの機会をくれる事だ。年寄りになると、確
かに現役時代に比べて人の前で話をする機会が少ない。だから、年寄りの中には会
合などで、この時とばかりと、ながながとしゃべり、ひんしゅくを買ったりする。

お年寄りの家に閉じこもりの原因は、足腰の弱りからきていると思ウ。「ドンキホーテ」
の会に参加の老人には杖をついた人はいない。足腰が弱くなると、どうしても外出が
面倒になり、社会との接触が減ってくる。これが老化への悪循環のように思える。閉じ
こもり老人をなくす対策は、足腰をきたえることだ。外出すれば、自然と外への関心も
深まり、ボケ防止にもつながる。





        寒々とした陽気 寒々とした政治

2010-05-15 05:25:50 | Weblog
首都圏の陽気はまたここへ来て変である。八十八夜を過ぎたというのに朝など"寒々”
と感じる。今朝もラジオ体操に長袖シャツだけでは寒いので薄手のセーターをはしょ
った。普天間基地移設をめぐる政治の混乱のせいではないかという思いもしてくる異
常気象である。

日本が戦争に負けた昭和20年5月も異常天候で寒かった。亡父が残した日記によると、
”初夏だというのに、この寒さは如何”(11日)”気温上がらず冬シャツ、綿入れ姿一寸
変だ”(13日)”あと数日で6月だというのにネルの襦袢に袷、こんな変調な年は自分が
覚えている限り初めて”(28日)。

敗戦3か月前、東京は連日のように空襲に見舞われた。市民生活は惨澹たるたるもの
だった。配給の食糧もとだえがちで、空腹をかかえた毎日だった。この年、61歳だった
亡父は18貫もあった体重が13貫にも減ったと日記に書いている。異常気象がいっそう
身にしみたのだろう。

おとといの夜、中学時代の旧友と久しぶりで渋谷で飲んだ。友人は中小企業の社長で
まだ現役である。酔うほどに話は鳩山内閣の普天間移設問題になり、そのトバッチりか
景気がいっこうによくならないとこぼし始めた。総理の言葉が毎日日替わりで、この状態
が5月すぎても続きそうである。

駅前のビルの8階にある大衆向けのチェーン店の広い店内は、客がまばらで閑古鳥が啼
いていた。敗戦の年も政治はまったく基能を失っていた。あえていうが、この無能の総理
の下では”日本丸”は沈没してしまう。倒閣の声を大きくしよう。


        一丸となって戦った沖縄戦の頃

2010-05-14 05:48:14 | Weblog
「”沖縄戦が国内唯一の地上戦だ”というのは正しくない。訂正が必要だ」と前原誠司
国土交通相が、衆院沖縄北方特別委員会で民主党議員の質問に対して答えたという。
その理由は旧樺太(サハリン)や硫黄島でも住民を巻き込んだ戦争があったということ
らしい。戦争を知らない若い大臣だから仕方がないが、もう少し戦争について勉強して
貰いたい。とくに、今、鳩山内閣が普天間基地移設問題で、いたずらに県民の神経をい
らだたせている時だ。何故、こんな無神経な質問をし、答弁するのだろうか。

昭和20年3月、慶良間諸島に上陸してきた米軍は4月1日、沖縄本島にも上陸、5月の
今頃は守備隊司令本部のあった首里(那覇)の攻防をめぐって,死闘が展開されていた。わが
軍は陸軍87000人、海軍10,000人、沖縄県民義勇軍22000人、これに対して米軍は、そ
の数倍にあたる兵力。それに住民を巻き込んでの戦闘は近代戦史でもあまり類のない激
烈な戦闘であった。

当時、僕は中学3年で、本土決戦に備えて江戸川と利根川を結ぶ運河の浚渫工事に勤労
動員されていたが、沖縄についで米軍が本土に上陸してくるのは必至と覚悟していた。
来る日も来る日も掘られたドロをモッコにかついで働いていたが、動員監督官の言葉は毎日
"沖縄のことを思え”であった。僕らは、それに答え、一丸となって必死に働いた。

”沖縄は日本だと本土は本当に思っているのか”-これは朝日新聞の見出しだが、若い政治
家はもっと、忠実に歴史を学び、沖縄県民の気持ちをさかなでするような発言は控えるべきで
ある。

        旧ソ連抑留者問題の幕引き

2010-05-13 05:51:28 | Weblog
政府と連立三党が旧ソ連やモンゴルに戦後抑留され、強制労働させられた元日本軍
関係者に対して特別給付金を支給する法案を今国会に提出するようだ。対象者は生存
している約8万人の方々で、抑留期間に応じて25万円から150万円が支給される。
戦後65年たって、やっと苦労の一端が報われるわけだが、考えさせられる問題もある。

先日NHKテレビの昼の番組に珍しく細川護煕・元総理が出演していた。今、国会博物
館で開催中の「細川家の至宝展」を扱ったNHK番組「日曜美術館」に関連した出演であ
ったが、番組の中で、戦後旧ソ連の抑留所で病死された細川氏の母方の大伯父、近衛
文隆氏の抑留カードを持参されていた。この抑留カードは細川氏が総理時代、訪ソした
さい、当時のエリチェンコ大統領から直接返還されたものだという。

戦後のドサクサにまぎれてソ連は旧日本軍関係者をシベリアなどに連行し、強制労働さ
せているが、その数は58万人といわれ、うち5万人以上が近衛文隆氏のように病死され
ている。これに対してソ連からは、一切の謝罪はないし補償もない。日本政府も"法的な
補償責任はない”としている。今回贈られる特別給付金は、独立法人「平和祈念事業」の
解散に伴う基金からだという。言ってみれば、この給付によって抑留者問題を幕引きにし
ようという見方もある。

近衛文隆氏は昭和31年4月病死している。同じ年の12月、日ソ共同宣言が調印されて
いる。日本側の代表は鳩山総理の祖父、一郎氏であった。あれから54年の歳月が経過
したが、棚上げされた北方領土問題は、いっこうに解決されない。抑留者への補償問題
は当時話し合われたのかどうか。多分話し合われなかったのではないか。