「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

タイの戒厳令とブミポン国王の動静

2014-05-21 06:04:01 | Weblog
反政府デモで混乱が続いていたタイで、ついに陸軍が全土に戒厳令を発令した。プラユット司令官はテレビ放送を通じて、これはクーデターではない、治安確保、平和のためにとった非常事態措置だ、と述べている。戒厳令によって予定されていた反政府デモは中止になり、国内には混乱は見られないが、果たして、これで、ここ数年来の政治混乱は治まのだろうか。注目されるのはブミポン国王の動静だ。

タイはクーデターの多発国である。1932年の立憲君主国以来、84年間に失敗を含めると20数回も起きている。僕が新聞社の外信部時代の1960年―70年代にもそうであった。この時代はタイではサリット首相の下、開発は進んだが、一方では政治的に混乱していた。なんどか軍のクーデターが起きているが、いつも大事には至らず、最終的にはブミポン国王の調停で治まった記憶がある。外電がタイのクーデター発生の緊急電を打ってきても、またかと驚かなった。

タイでは憲法上、国王は”何人(なんびと)も侵すことができない”不可侵性を持っている。それに現在のブミポン国王は1946年以来在位が長く国民から信頼され、親しまれている。1982年の軍をバックにしたスチンダー首相と民間政治家チャムロンとの間の争いでは流血衝突まで発生したが、国王の一言で解決している。現在の混乱も昨年12月の国王の86歳の誕生日には、デモは中止されている。

ブミポン国王の動静は伝わってこないが、親日国のタイである。それに経済的な結びつきも強い国である、高齢のブミポン国王だが、事態収拾のため”人肌”脱いで頂きたいものだ。


カキ氷の流行と季節感の喪失と老人

2014-05-20 06:56:57 | Weblog
NHKテレビの朝の番組「あさいち」で”進化する”カキ氷を特集していた。最近、若い人の間で、カキ氷にかけるシロップが”進化”し、リンゴ、トマトなど、これまでなかったシロップが登場、ブームになっているとのこと。そういえば、まだ梅雨入り前だというのに、東京のわが家近くの店には平日、長い行列ができている。昔、僕が子供だった頃は、カキ氷といえば、盛夏、麦藁帽子をかぶり、ヨシズ張りの店で食べたものだったが。それも”スイ”(砂糖水)とか”イチゴ””メロン”などに限られていた。

カキ氷が進化したといっても古い頭の年寄りには、今一つピーッとこない。まタ季節感の喪失、俳句の季語の混乱ぐらいである。季節感の喪失の一番は果物ではないだろうか。スーパーの果物売り場には、もう大きなスイカがずらりと並び、枇杷まで売られている。今は一年通じていつも手にはいるイチゴは昔はこれから6月が旬だったのだが、もうそれを知る人は少数派である。ビニール.ハウスの進歩と普及によって”季節はずれ”の果物が手にはいるようになったのだ。

南の国は四季がなく、雨季と乾季の二シーズンの国が多い。果物もこの二シーズンによって出盛りがあるようだ。沖縄は今、パインが最盛期である。スーパーの輸入物のパインに比べると、味は格段にうまい。専門外で判らないが、パインもビニールハウスで将来栽培できるのかもしれない。そうなれば、沖縄のおいしいパインが一年中食べられる。いまは”全国区”になったゴーヤも、かっては一定の時期、沖縄でしか食べられなかった。”攻めの農業”とはこういうことを言うのかもしれない。季節感の喪失などと文句を言うのは年寄りだけかもしれない。しかし、想い出に生きる老人には寂しいことだ。


老後の生活設計は早めに決断を!

2014-05-19 06:32:26 | Weblog
内閣府が35歳から64歳の現役世代に老後の生活の生活についてアンケート調査したところ、経済的に不安を感じている人が全体の66.9パーセント、健康に不安を感じている人が72パーセントもいた、と新聞が報じていた。超高齢化時代が、すぐ目の前にやってくるというのに、この数字は、ある意味でショックだ。これでは日本の将来はバラ色には描けない。

この調査を見て驚いたのは、一番働き盛りの40-44歳代が、老後の経済的備えについて、”かなり足りない”が63.6パーセント、”少し足りない”が10・8パーセントで、合計すると74.4パーセントと、全世代を通じて最も多いことだ。老後の健康についても全世代を通じての調査だが、”時々不安を感じている”が49.8パーセント、常に感じている”が23.1パーセントもいることだ。どうみても僕には異常に映る。

自分の事で恐縮だが、40年前の40歳前後の時を振り返ると、僕は仕事で忙しく、老後のことなど考える余裕はなかった。いわんや老後の健康などまったく思いもしなかった。とくに僕の場合は40歳の時、父が84歳で死亡、そして41歳の時、転職と転勤が一度にやってきた。とても老後の設計など考えも及ばなかった。しかし、周囲の勧めで、転勤を機会に自分の住んでいた家を、銀行からの借金でアパートに改造して人に貸した。これが老後の生活に役立つとは、その時点ではあまり思わなかったのだが。

50歳の時、僕は定年を前に勤めを辞めている。当時はまだ55歳定年制であり、生活基盤のない北海道で老後を送る自信がなかったからだ。次の就職先もなく不安だったが、最低限アパート収入があるからと家族を説得して故郷の東京に帰った。この時点では、老後の設計を考え、厚生年金の額がいくらになるかは調べていた。幸い、東京での勤め先があり、65歳まで働けることが出来た。収入は半減したが、結果的には自分の好きなことができ、老後の生活に役立っている。人間、運不運はあるが、僕の経験では、老後の設計は早めに考え、熟慮の上での決断が必要のようだ。

ベトナムoverpresence(過度経済進出)の心配

2014-05-18 04:59:02 | Weblog
南シナ海の中国石油掘作作業に端を発したベトナムの反中デモは全国規模に広がり激しさを増している。現地からの報道によると、デモは中国にだけではなく、他の外国企業にもおよび、日本の企業の中には、工場や事業所に日の丸を掲げて、自衛している所もあるそうだ。

これで思い出すのは40年前の1974年1月。ジャカルタで起きた田中角栄首相の訪問反対デモだ。原因については68年のスハルト政権発足以来、日本企業が一度にどっとインドネシアに経済進出(overpresence)してきた事に対する、インドネシア人の反動というのが通説になっている。確かに当時のの日本企業の中には、大統領側近の軍人や華僑系企業と組んで、派手な行動が目立っていたようである。

インドネシアは今でもアセアン諸国随一の親日国といわれる。僕がインドネシアに駐在していた1966年―67年は9.30事件後の政治混乱で、毎日のように学生デモが続き、中国大使館が焼きうちされるなど華僑は恐々としていた。当時在留邦人は200人足らずだったが、皆、華僑と間違えられるのを怖れて車のフロントガラスに日の丸を張って走ってた。日本人なら安全で、まさか田中総理がデモに会い、会議場からヘリで脱出する騒ぎになるとは当時想像もできなかった。

ベトナムへの日本企業の進出は1990年代後半から始まり、現在1500社近い企業が仕事をしている。両国間の関係は、安倍総理就任後初の訪問国がベトナムだったし、つい先日ベトナムからも主席の訪問もあり友好である。とくに観光面では、近くダナンへの直行便が飛ぶなどブームになっている。今回の日本企業へ被害は、反中デモの”とばっちり”と思うが、過去にジャカルタ反田中暴動のようなケースもあったことを一言。

世界一の長寿国でも喜べない

2014-05-17 06:40:30 | Weblog
WHO(世界保健機関)の2014年版「世界保健統計」によると、男女併せた日本人の平均寿命は84歳で、前年に引続き世界一だという。女性が87.0歳、男性80.0歳で、男女あわせると世界一となるとのこと。”ご同慶の至り”といいたいが、この種の世界一統計を見るたびに、果たしてこれが”ご同慶”なのかどうか疑問になる。

一昨年秋、僕は杖をつきつき8日間,シンガポールとインドネシアを独り旅してきた。帰国後その印象をブログに書いたが、その一つは両国ともバリアフリーなど”老人インフラ”が、日本に比べてはるかに遅れていたことだった。これについて僕は誇りに思ったが、一方、日本に比べて、地元の人たちが日本に比べて老人に対してとても親切なのに感心した。

先日、東京の若年性認知症の女性(67)が、徘徊から行方不明になり、7年ぶりに70キロも離れた群馬県館林で発見された。女性の夫は妻が行方不明の直後、警察に届け出し、警察も全国に手配したが、認知症の女性の言った名前が間違っていたこともあって発見できなかった。保護願いにはご本人の写真まで添えられていたというのに、どこか間違っている。それは、最近の日本人の心の問題ではないかと思う。

たしかに東京のような大都市の地下鉄の駅は、エスカレーターも整備され高齢者にも利用されやすくなっている。道路もバリアーフリーで安全だ。しかし、依然として老人優先席に、若者が大股を広げて占領し、年寄りが来ても立とうとしない。シンガポールの地下鉄では、僕が乗車したら一斉に乗客が立って僕に席を譲ってくれた。館林の老人施設では親切に7年間、女性を保護してきたそうだが、今一つ、心があれば、もう少し早く女性の身元は判明したに違いない。

要支援 要介護のない旧友たちとの集まり

2014-05-16 06:24:42 | Weblog
一昨日、66年前、旧制中学を一緒に卒業した旧友3人とほぼ3年ぶりに会食した。戦中戦後の厳しかった時代、共に学び共に遊んだ仲である。83歳、84歳の老人たち、久しぶりの話はお互いの病院通いなどの近況になったが、僕を除く3人はみな要支援、要介護の認定のない元気な老人たちだ。杖の世話になっているのは僕一人で、なんとはなく恥ずかしい気持ちにもなった。

幸いにも四人とも伴侶(妻)が元気で年金中心に”まあまあ”の老後の生活を送れているが、悩みは子供たちが、まだ未婚の者が多く、中には孫がいない者もいる。そこで、どうしても孫の自慢話は、お互いを気遣って遠慮することになる。久しぶりなので、話は「集団的自衛権」「靖国参拝」「慰安婦」などについても意見を述べ合ったが、やはり最大の話題は認知症への不安と”終い”の老後生活をどうするかであった。

要支援、要介護でなくとも老人はどうしても外部との接触がなく他人との会話が少なくなる。旧友の一人が”昼間、今頃になると眠くなるが、お前はどうだ”と聞いてきた。昼寝が認知症と関係があるかどうかといった不安かもしれない。老人が昼間眠くなるのは当たり前で、僕も短時間だがウトウトすることが多い。

二時間ばかり楽しい会合だった。店のサービスのビールを飲み、ほろ酔い機嫌で帰宅、ブザーを押したが反応がない。あいにく鍵を持たずに出かけたため完全に締め出されてしまった。多分、留守番の老妻が急用があって出かけたのだろうと思い、近所を散歩して帰宅、再度ブザーを押したら老妻が出てきて、ブザーの音に気が付かなっかという。ラジオをききながらウトウトしていたらしい。老妻も介護1の認定を最近受けたばかりである。年は争えないし勝てない。

時事通信田口記者の死とインドネシア9.30事件後の虐殺事件のナゾ

2014-05-15 08:12:06 | Weblog
また友人の訃報である。49年前の1965年9月30日インドネシアで起きた「クーデター未遂事件」(ゲスタポ)を若かりし頃、現地で取材した時事通信の田口三夫氏(元編集局長)である。78歳。僕は直接、この事件は取材していないが、そのあと事件収拾のため、翌66年3月、スハルト将軍(第二代大統領)がとったスカルノ大統領に対する「権限移譲措置」(スペルスマル)を田口氏と一緒に取材している。田口氏は事件について後に「アジアを変えたクーデーター、インドネシア9.30事件と日本大使」(1984年 時事通信)という本を出版されている。

ゲスタポからスペルスマルに至る事件はインドネシア近代史上大事件であるが、同時に”アジアを変えた大事件”であった。しかし、事件から半世紀近く経つのに、いまだに事件の全容は明らかではない。事件の主役ともいえるスカルノ、スハルト両大統領が亡きあと、永遠に真相の謎は解けないかもしれない。この謎をめぐって最近、日本で二つの本が出版された。「インドネシア9.30クーデターの謎を解く」(草思社 千野境子)と「9.30世界を震撼させた日」(岩波書店 倉沢愛子)である。

千野境子さんの本は産経新聞論説委員長の経歴を持つ著者が、長年の国際記者の体験から、事件の謎を当時の国際情勢から説き起こそうとするもの。著者は事件当時、駐インドネシア大使だった斉藤鎮男氏(故人)からも長時間取材している。一方の倉沢愛子さんは、慶応大学の名誉教授でインドネシア近代史の権威だが、同時に日本軍政時代のスマトラ第25軍防空壕虐殺(虚報)を自著に書いている。

ゲスタポの後、インドネシアでは事件は中国が共産党(PKI)を煽動して起こしたとして、全国規模で共産党とそのシンパ”が狩り”が」起こり、一説には20万人が殺害されたという。当時、インドネシアには日本人記者は二人しかいなかったが、もう一社の朝日新聞記者の報道によれば、ジャワ島を流れるソロ河が血で真っ赤に染まった。倉沢さんの新著は、この虐殺についても、これだけの大虐殺を何故国際社が無視し、問題にしなかったと謎を投げかけている。僕は当時インドネシアにいて、66年、ジャワ、スマトラ、バリだを約1年間、、現地取材した印象では、大虐殺があったにしては、その”あとかけら”も感じられなかったことだ。虐殺がなかったとは言わないが、ソロ河が血に染まるほどの大虐殺はなかったと思うのだが。




サッカー日本代表は決まったが、年寄りには?

2014-05-14 05:08:22 | Weblog
新聞もテレビの番組をサッカーのW杯日本代表決定のことばかりだ。加齢の証拠なのだろう。この”バカ騒ぎ”に多少抵抗がないではない。サッカーが今のように国民的なメジャー.スポーツになったのは、せいぜいこの30年、Jリーグが発足した頃からだ、それ以前はフットボールであり蹴球と呼ばれてマイナー.スポーツにすぎなかった。。1968年のメキシコ五輪で代表チームが銅メダルを取ったのに試合の一部しか放送されなかったほどだ。

今の国民体育大会(国体)は戦前、明治神宮競技会と呼ばれていたが、戦争のため昭和19,20年大会は中止されている。18年の最後の神宮大会の時、僕は中学1年で、母校の相撲チームの応援に出かけたが、母校にはサッカーも野球のチームはなかった。週に何時間か教練の時間があった時代である。スポーツどころではなかった。

戦前、日本のサッカーの全国組織は「大日本蹴球協会」と呼ばれていたが、昭和17年、敵性スポーツという理由からか解散させられている。そして戦後すぐの20年11月、会費を支払わなかったという理由でFIFA(国際サッカー連盟)から除名されいる。敗戦や食糧難から国民はスポーツどころではなかった。こんな時代に育った僕らの世代である。戦後すぐ復活した野球以外はしたことがないし興味がない。

老妻は僕と同じ昭和1ケタ世代だが、僕と違って孫が幼かった頃サッカー選手だった影響で、僕よりは関心がある。国際大会の深夜の中継など僕は、まったく見る気にはならないが老妻は見ている。僕だけが”蚊帳の外”で寂しい。

日本スペイン交流400年 巡礼地ブーム

2014-05-13 05:32:55 | Weblog
2013 ~14年にかけ日本スペイン交流400年交流行事が色々と展開されているが、スペイン北部の巡礼地、サンティアゴ.デ.コンポステ―ラが、日本の観光客の間で静かなブームのようだ。先日も安倍総理がスペイン訪問中、わざわざ、この地を訪れラホイ首相との昼食会に招かれ歓談されている。これに先立ち、昨年11月、駐日スペイン大使夫妻が、四国巡礼地へ赴き、白装束、菅笠、金剛杖姿で写真に収まっているのを見たが、両国の間で”巡礼地”観光をめぐって取決めでもあるのだろうかー友好親善でよい事だ。

400年記念行事は1613年、仙台藩の伊達正宗が支倉常長らの遣欧使節をスペインに送ったのを記念して行われているが、2000年には同じように日本とオランダとの間で、1900年にオランダ船が大分県臼杵海岸に漂着したのを記念して400年行事が行われた。僕はその行事の一つに関係したがせっかくの親善行事だったのにイヤな思い出しか残っていない。オランダ側が親善行事なのに、先の戦争中の資料展に名を借りて、反日展示会を各地で開いたことだ。日本とオランダとの関係は、長崎出島貿易の300年などスペインより、はるかに深い。それなのに僅か3年余りの戦争体験を持ち出し、相手国の国内で反日を喧伝した。

戦争中スペインは内戦(1936年―39年)は内戦もあって、フランコ政権は遠い極東の地の戦争には関わり合いがなかった。これに対してオランダは、蘭印という最大の植民地を失った。その違いである。心情的にオランダの気持ちは理解できるが、たった3年余りの戦争のために400年の友好行事を台無しにしてしまった。巡礼地観光外交の方が、より前向きで建設的である。

”祖父の軍歴”と軍服のコスプレ

2014-05-12 05:55:44 | Weblog
”祖父の軍歴を知りたい”という問い合わせが最近、厚労省に増えているという。産経新聞の報道によると平成25年は前年度にくらべて約3割増だとのこと。この背景の一つとして、祖父の海軍航空隊時代を描いた、作家百田尚樹のベストセラー「永遠の0」の影響があるみたいだ。インドネシアの軍政の研究家のぼくの所にも、見知らぬ方から同じような問い合わせがあり、知っている限りのことはご返事している。

戦後からでも69年経ち、先の戦争に従軍した世代のほとんどが世を去り、成長した孫の世代が改めて祖父の戦争中の足跡をたどりたくなったのだろう。しかし、戦後のおかしな現象で、意外と子の世代には戦争が伝承されていない。従軍世代は、自分の苦しかった戦争体験を子に話したくなかったのであろう。まして、戦病死したり、戦後”戦犯”として刑死した遺族はそうである。インドネシア関係の友人の話では、マカッサル法廷で刑死された方の遺族は友人に問合せするまで、自分の祖父は戦死とばかり思っていたという。

新宿住友ビル48階に「平和祈念資料館」がある。先の戦争で戦後シベリアへ強制抑留され、約5万人の方がなくなっているがその悲惨な体験を中心に戦争期の資料を収集し展示している。僕も過去、何冊か戦争に関する図書を寄贈したことがあるが、都会の中心に、このような戦争史料館があり、無料で見学できることは大変意義があることだ。しかし、ネットのHPを見て”軍服を着てコスプレができる?”とあった。僕ら戦争体験世代は、旧軍隊のカーキ色の軍服に嫌悪感をもっている者が多い。「鞍馬天狗」の作家、大佛次郎は著書の中で”カーキ色には本能的に嫌悪と憎しみを感じる”と書いている。

僅か70年前の戦争が風化し始めてきている時代に、孫の世代が祖父の戦争体験に関心を持たれ、改めて戦争を総括されるのは賛成である。しかし、軍服のコスプレ体験には反対である。いまだに戦地には、収集されない遺骨が放置されている。朽ちた軍服の英霊に対する冒涜である。