「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「母の日」に亡き母を想う

2014-05-11 05:15:08 | Weblog
5月第2日曜日は「母の日」である。この日に紅白のバラを母親に贈り、感謝する慣習はいつごろから日本で始まったのであろうか。亡母は昭和51年、今の僕の年、83歳で亡くなっているが、生前、僕は「母の日」に何かお祝いをした記憶はない。老妻に確認したが、覚えはないという。

ウィキペディア情報によると、5月の第2日曜日に「母の日」を祝うのは米国と日本だけのようだ。スペインは5月の第1日曜日、北欧諸国は最後の日曜日である。その起源については、いろいろな説があって判らない。しかし、第2日曜日が米国で「母の日」に制定され、国祭日となったのは1914年、ウイルソン大統領の時で、百年前の事である。日本が米国にならって、この日が「母の日」として祝うようになったのは戦後、それもこの20年ぐらいだと思う。

「母の日」から百年ということで、百年前の日本の社会の母親感を一つ。「たはむれに母を背負うてそのあまりの軽さに泣き三歩歩まず」-石川啄木の歌だが、啄木は1912年4月、26歳の若さで夭逝、母親のカツさんは、その1か月前の3月に亡くなっている。二人とも結核であった。多分、この歌は病身の啄木が、これまた病身で痩せ細った母親を背負った時の感想である。百年前の日本の貧しかった社会が想起され痛ましい。

「バレンタイン.デイ」と同じくコマシャーリズムが多少チラホラしないでもないが、年に一回「母の日」に母親に感謝し、亡き母を想い出す出すのはよい事である。啄木と違い、わが母は16貫(60キロ)もあった。幼稚園で僕がこのことを”自慢”して友達に言いふらした、と苦笑してたのが何か想い出として残っている。戦前昭和のうたたかの平和の佳い時代の話である。

「若年女性」の減少と日本の将来

2014-05-10 06:31:04 | Weblog
平成52年(2040年)、今から26年先になると、わが国の896市町村から「若年女性」(20歳―30歳)が半減するというショッキングな推測が「日本創生会議」から出た。「日本創生会議」とは有識者の集まりで、政府に対して政策を発信する機関のようだが、寡聞にして詳しいことは知らない。この推測通りだと、日本の各地に自治体の機能を喪失した地域が生まれ、日本全体の将来にも影響してきそうだ。

今年を起点にすると、逆に26年前は昭和63年(1988年)である。まさにバブル経済の真っ最中であった。青函トンネルが開通し、瀬戸大橋が本州と四国とを結んだ年であった。地価が高騰し、日本全国が浮かれていた年であった。僕個人も多少その恩恵をう受け、盛り場を飲み歩き、帰宅のタクシーを探すのに困った時期であった。

当時を振り返ってみると、26年後の日本が今のように少子高齢化時代を迎え、社会保障費の高騰から消費税が8パーセントになるとは、僕は思ってもいなかった。男女雇用均等方が導入され、女性の収入が向上したのも、この時代であった。それと因果関係があるかどうか不明だが、この頃から結婚率が低下し、「おやじギャル」という言葉も流行した。

加齢とともに、年々歳月の経過が”光陰矢の如し”になってきた。26年先といっても、すぐ先である。僕らの世代は、まずこの世にはいないが、日本の創生のためには、推測だけではなく、実際に百年先の日本を考えて政策を実施に移すべきである。

超高齢者社会 知的余生の過ごし方

2014-05-09 06:42:26 | Weblog
「キラキラ通信」の最新号260号(2014.5.1発行)を知人から頂いた。”キラキラ”とはインドネシア語kira kiraで”およそ”とか”ほぼ”とか”ざっと”といった意味がある。おそらく発行者のK.Iさんは、”キラキラ光る”という日本語にひっかけて命名されたのであろう。通信の内容は最新のインドネシアの政治、経済、文化事情の解説と、日本国内のインドネシアに関する催事、人の動きなどの紹介である。B5版4ページのペーパーで、有料で読者に配布している。

K.Iさんは元大手食品会社のジャカルタ駐在員だったが、定年前に会社を辞め日本国内で、この冊子を発行し始めた。大学での専攻がインドネシア語であり、もともとインドネシア大好き人間なのだろう。独りで取材から編集までやり、会員に郵送されているが、広告収入もなく、儲け仕事とは思えない。「後書」に発行者K.I、後援者家族一同とある。おそらくK.Iさんの”趣味”をご家族一同で支援されているのだろう。

ネット上で「スラウェシ情報マガジン」(www5d.biglobe.ne.jp/)を発信しているK.Wさんもインドネシア大好き人間の一人である。K.Wさんは専門の造船関係の仕事でスラウェシ島のマカッサルに長年滞在されていたが、定年後、ご自分でこのHPを編集、情報を集めて発信されている。K.Iさんの場合は、インドネシアでもスラウェシ島に限り、現在だけでなく、戦中戦前の「セレベス」の歴史にまでさかのぼって情報を提供している。

超高齢者社会の到来である。自分の事で恐縮だが60歳で厚生年金生活に入ってからすでに23年である。幸い、僕の場合は年金を頂戴しながら65歳まで仕事があり、その後も、おカネにはならないが、こんな雑文を書きながら、あまり暇を持て余すことはない。K.Iさん、K.Wさんもそうだが、定年後の長い余生を、自分の生きざまに絡めて”知的”に暮らすのも幸せなことだ。

病院に総合医療の「老人科」を!

2014-05-08 05:03:31 | Weblog
昨夕、膝の人工関節置換手術後初めて夜の会合に出席した。手術後月に一回、病院で経過を診察して貰っているが、ただ歩くだけなら不自由なくなった。杖がなくとも歩けるのだが、転ばぬ先の杖、持参はしている。80歳をこえる高齢者にとって外科手術は、心身ともに負担であったが、結果的には思い切って手術してよかったと思っている。

よかったのは膝だけではない。手術に際して糖尿値を下げるため事前に1週間予備入院し、さらに手術後も続けて4週間、インシュリン注射と並行して低カロリー(1400カロリー)の病院食で体重をダウンさせたことだ。もともと僕の場合、糖尿病の一つの目安というHbAIcは、常時6.00iで、食後の血糖値が150を超すタイプの糖尿病であったが、84キロあった体重が退院の際は75キロと約10㌔ダウンした。この体重は退院後も維持されている。

厚労省は今、高齢者を対象に総合医療制度を確立する案の実施を検討中だという。内科、外科の領域を越えた「老人科」を作ろうという案のようだ。102歳になる聖路加病院名誉院長の日野原重明先生も「100歳からの人生」の著書の中で、この総合医療を提唱されている。僕も自分の体験から老人の総合医療制には賛成である。僕が膝の痛みを感じたのは10年ほど前からだが、通院した整形外科では、もっぱら、いわゆる電気治療と療法士によるマッサージであった。

昨夕の会合で会った三人の友人の二人までが、日常、高血圧、糖尿の内科治療のほか、腰や膝の痛みで整形外科に通ったり、スポーツジムのお世話になっている。一見、内科と外科で関係がないようだが、老人独特のものである。かりに老人の病気を診る「老人科」のような総合医療があり、僕のように体重をダウンできれば、膝の痛みの治療にもつながる診断になったのではないか。病気をあまりに細分化し、それに応じた薬を出すだけでは、医療費の高騰になるだけである。

座高測定の廃止と徴兵検査

2014-05-07 05:36:26 | Weblog
学校の健康診断で義務づけられていた座高の測定と蟯虫(ぎょうちゅう)検査が早ければ平成27年から廃止される。この新聞記事で、僕は座高の測定が1937年(昭和12年)、僕の小学校入学した年から始まり、この座高測定が徴兵を意識したものだったことを知った。戦前、徴兵は国民の義務であり、満二十歳の男子は、みな徴兵検査を受け、結果によって兵隊にとられた。検査の結果は甲種、第一乙、第二乙、丙種と四つに別れ、平時には徴兵されなかった丙種まで戦争末期には徴兵された。座高、平たく言えば胴の長さだが、これが長いほど健康だと、当時は信じられていたようで、学校での座高測定が始まった。

手文庫の中に僕の小学校の通信表(昭和13年度)が保存されていたので、確認すると「身体検査表」の中に座高が書いてあり、僕の座高は70.00センチとある。これは二年生の東京市の児童体育平均67・78センチより長く、四年生の69.6センチなみだ。このまま成長していたら、僕は座高の面では甲種合格であった。ちなみに、昭和15年度までは、成績表の表記は甲、乙、丙、丁で、操行(行儀)だけは優、良、不良評価であったが、何故か国民学校制に移行してからは優、良上、良下に変り、操行の表記はなくなっている。

昔の軍歌に”五尺の命引っさげて”(学徒出陣の歌)とあるが、徴兵検査甲種合格の身長の基準は五尺三寸(約1メートル60センチ)と言われていた。今なら小学校高学年の身長である。座高検査と同時に蟯虫検査も廃止になるそうだが、戦前は畑で下肥を使っているから、蟯虫ではなく、回虫が多いとされて検査が行われたが、容器がマッチ箱だった記憶がある。座高廃止から、忘れていた昔の事を思い出した。

甍(いらか)の波 羽織(はおり)の紐(ひも) 柱のキズ

2014-05-06 06:36:07 | Weblog
昨日は国民の祝日「こどもの日」だったが、僕ら年寄りにとっては、やはり男の子の「端午の節句」の方が懐かしい。戦前は、今のように学校は休みではなかったが、子供心にわくわくする一日であった。東京の空には鯉のぼりが泳ぎ、ほとんどの家で五月人形を飾った。お風呂屋の菖蒲湯も珍しかったし、何より、あまり普段お目にかかれない柏餅や粽(ちまき)が食べられるのが嬉しかった。

端午の節句というと、二つの歌が思い浮かぶ。”柱のキズは一昨年(おととし)の”であ始まる「背くらべ」(海野厚作詞 中山晋平作曲)と「鯉のぼり」(小学校唱歌 弘田竜太郎作曲)の二つだ。どちらも大正12年に世に出ている。90年前の歌だが、いまでも僕はソラで歌えるが、歌詞の中には今の子供には理解できなくっている言葉が多い。

甍の波といっても、東京のような都会では、高層ビルが多く、瓦屋根を探すのが難しい。第一鯉のぼり自体が泳いでいない。住宅構造が変わり、床の間のある家がなくなり、柱のない家ばかりだから、背くらべしたくともキズがつけられない。羽織の紐の長さといっても、日常の生活で和服を着ることがなくなり、羽織といっても解からないし、ましてその紐といっても見たことがない子供が多い。

歳をとった証拠である。少年だった昔の事が懐かしい。銭湯の菖蒲湯で仲間同士でお湯をかけあい、クリカラモンの入れ墨をした大人から怒られたのが、昨日のように思われるのだが、戦争が終わってからでも70年、90年前の童謡の世界が解らなくなったとしても当たり前だ。

皇室とご養蚕 文化遺産「富岡製糸場」

2014-05-05 05:35:18 | Weblog
皇后陛下が今年も皇居内にある「紅葉山ご養蚕所」で蚕を繭にする作業を始められた(産経新聞皇室ウィクリー)。皇室でのご養蚕は古くは「日本書紀」にも記載があるそうだが、皇居内での本格的な養蚕は、明治維新後、国をあげて養蚕を国家事業として取り組もうと、明治天皇の皇后、昭憲皇太后が始められた。

今回ユネスコの「世界文化遺産」として登録が確実となった富岡製糸場も皇室とゆかりがあるそうだ。明治天皇は明治6年、前年出来たばかりの富岡製糸場視察されている。現在の天皇陛下も平成23年、ご覧になっている。

僕ら東京生まれ、東京育ちの人間にとって養蚕は縁がないが、昭和16年、国民学校の理科の宿題で家庭で蚕を飼った。学校から蚕を貰い、これを木箱に入れて育て繭にした。今でも覚えているのは、家のまわりに桑の木がなく、母親に連れれて目黒の不動尊近くにあった林業試験場まで貰いに行ったことだ。当時、地方ではまだ養蚕が盛んで、祖先の地、埼玉県深谷の家では、二階の広い部屋で本格的に蚕を飼育していた。

都会の人間にとって、養蚕はこんな程度の関わりあいしかないが、後年、戦後になってからだが、長野県岡谷へ座繰り製糸を取材に出かけた。多分、まだ手作業の製糸が行われていて珍しい、ということだったと思う。今はどうなのだろうか。富岡製糸場のユネスコ文化遺産登録を機会に、日本の伝統的な座繰り製糸など昔ながらの伝統技術も後世に伝えて貰いたいものだ。

大型連休 後期高齢者の憂鬱

2014-05-04 06:28:30 | Weblog
大型連休も後半に入った。東京は文字通り五月晴れが続き、長袖では暑いくらいの陽気だ。新聞のチラシ広告に近所の駒沢オリンピック公園の広場で「肉フェス2014」が開催中とあった。日本各地の名物料理と世界各国の肉料理の出店が一堂に集まり食べられる、という催しだ。わが家から歩いて30分とかからない距離。陽気もよく出かけてみようとしたところ、家族からストップがかかった。杖のお世話になっており、低カロリーの食事の身には、とんでもないというのだ。

テレビもあまり面白い番組のもなく、午後リハビリを兼ねて近所へ散歩に出かけた。暗渠の上の桜並木はいつの間にか葉桜に変り、大通りの歩道脇のツツジも真っ盛りである。その通りの和菓子店の前に、3,40人の長い行列ができていた。”カキ氷”が名物の店で、夏場になると行列ができることもあるが、時季がまだ早い。列の若い男性に聞いてみたら、ネットで”男の手土産”として人気の「八雲餅」を買いに来たのだという。「八雲」とは町の地名で、昔から黒砂糖と牛求肥(ぎゅひ)の味がマッチしておいしい味だったが、行列ができるとは驚きだ。

世をあげてグルメの時代である。昼時、夕時のテレビは、どこの局もグルメの紹介である。思えば僕らが若いかった頃もそうだったが、今と違って情報が限られていて、住宅街の中の和菓子屋に行列ができることなどなかった。端午の節句の季節である。僕は子供の時から味噌入りの柏餅が大好きなのだが、
この行列の店では扱っていない。娘が勤めの帰りに電車を乗り継いで買ってくる私鉄沿線の小さい駅前の店では、これを売っていて美味しいのだが、連休で買えない。後期高齢者はグルメには縁がなく、じーっと連休が終わるのを待つしかない。


姉が亡くなって70年 厳しかった銃後の生活。

2014-05-03 05:13:54 | Weblog
一人姉弟の姉が亡くなって70年になる。昭和19年5月2日、姉は肺結核で21歳の若さでこのを去った。今なら治るものの当時は薬もなく、言ってみれば姉は銃後の戦死だと思っている。姉は国家総動員令もあって高等女学校を出ると、すぐ保険会社に就職したが、若い男性は戦地に送られ、その影響で残業が多く過労から風邪をこじらせ4か月病床に伏しただけであった。

戦前、結核は”死に至る病”と恐れられた。わが家でも姉の結核は周囲には”肋膜”と秘密にした。結核の療法としては堀辰雄の小説「風立ちぬ」のように空気の好い所に転地してサナトリウムで栄養のある食べ物を食べて休養るほかなかった。当時の東京はまだ、空襲こそ激しくなかったが、食料は不足し、風邪薬まで入手が困難の状態であった。そんな状況下、母は何処からかヤミで当時貴重品であったタマゴや鶏肉を求め姉に与えた。僕も毎日、熱さましの氷1貫目(約1キロ)を買いに氷屋へ出かけた。

叔母も19年9月、57歳の若さで亡くなっている。夫に先立たれ、叔母は和裁の教室を開き生活をたてていたが、、二人の息子が徴兵された後、その気苦労からか、風邪をこじらせて不帰の客となってしまった。叔母は正規な医者にかかれず、安い”もぐりの医者”から薬を貰っていた。戦前、東京にはこういった、正規ではないニセ医者が開業していた。

今のような国民医療保険制度が出来たのは戦後のことで、庶民はよほどの事でない限り医者にかからなかった。ちょっとした風邪や腹痛は売薬で済ませていた。また生活保護制度もなく、貧乏人は薬も買えなかった。それにもまして戦時下は食糧が不足し、栄養不良者が多かった。戦争は銃弾だけではない。銃後の庶民の生命まで奪った。

86歳のブローガー 毎日がハッピー 毎日が宝物

2014-05-02 06:34:55 | Weblog
NHKラジオの深夜便(2日午前4時放送)「明日への提言」のコーナーで、昭和2年生まれ86歳でブログを書いている繁野美和さんへのインタービュを聞いた。前から番組を聞き逃さないよう注意していたのだが、気がついたのは後半20分ぐらいだった。繁野さんのブログ「気がつけば82歳}については小ブログでも紹介させて頂いたことがあるが、初めてラジオでお声をきいて驚いた。お声がお若いこと、そして何よりも、とてもとても83歳の若造の僕には及ばない旺盛な知識の持ち主であることだ。

早速、ネットのyou tubeで繁野さん生活を拝見しながら、改めて最新更新のブログ「大好きな五月」をみせて頂いた。繁野さんがお書きになった水彩画に貴賓のある文章そして、きちんんと自身のラジオ出演まで触れておられおられた。繁野さんは60歳からPCを始められ、2009年6月から「気がつけば82歳」のブログを開始された。もともと油絵は書かれていたそうだが、ブログのために水彩画にも挑戦、専門のレッスンも受けたという。

繁野さんも僕と同じ昭和1ケタの初期で、戦争中学徒動員で軍需工場で働いた組だ。インタービューでは、その当時の苦労の話をされ、戦争には大反対だと語られていたが、同時にあの時代短い体験が、そのごの人間形成に役立ったという趣旨の事も話されていた。最近、繁野さんは86歳のブロ―ガ―について「毎日がハッピ―毎日が宝物」という題で本を出版されたそうである。

繁野さんの旺盛な好奇心は、僕なんかとても足元にもおよばない。宇宙からIPS細胞にまで興味があり本を読んでおられるそうだ。高齢者の認知症が色々問題になっているが、その予防には繁野さん的行き方は大いに参考になるのでは。僕も繁野さんに習って、小ブログに自筆の油絵を添えたい気持ちはあるが、とうてい無理なような気がする。