「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

旬がなくなったカタカナ名前の野菜とTPP

2015-03-21 06:00:05 | Weblog
最近わが家の食卓に必ずカボチャが登場する。カボチャが大腸がんの手術後に良いと、老妻がどこからか聞いてきて僕のために料理してくれる。カボチャとといえば、昔は夏のものだったが、今は、外国からの輸入物があり、いつでも食べられる。老妻が買ってくるカボチャは遠くメキシコから来たものだが、比較的安く手に入るし、味も食糧難の頃食べさせられた、あの水っぽいのとは違って美味しい。

TPP交渉がどうなっているのか素人の僕には解らないが、昔に比べてカタカナ名前の野菜を日常食べる機会が多くなってきたようだ。野菜の自給率は80パーセントというから、食料全体の40数パーセントに比べれば、あまり問題にならないのかもしれない。メキシコ産のカボチャもそうだが、先日、老妻が「モロッコ.インゲン」という平ザヤのインゲンを買ってきた。僕はてっきり、北アフリカのモロッコからの輸入物だと思い、外国野菜に敏感な娘は手を付けなかった。しかし、ものの本によると、モロッコには関係がなく、種屋さんがつけた商品名にすぎないという。

ハウス栽培の普及と食の多様化で、野菜や果物の旬がなくなってきた。昔は夏野菜の代表格であったトマト、キュウリ、ナスなどが今では冬でも食べられるようになった。また、かっては沖縄ローカルの野菜だったゴーヤとか、全く戦前にはなかったオクラなどが国内でも栽培され食されるようになった。今スーパーの店頭にはイチゴの箱が沢山出回っているが、戦前イチゴは6月から7月にかけての一時期しか食べれなかった。

消費者にとっては、いつでも新鮮な野菜や果物が食べられるのは有り難いが、生産者にとっては、これからTPP交渉の妥結にむかって難かしい時代である。

「話す」「書く」英語が苦手な高校生

2015-03-20 05:45:54 | Weblog
文科省が高校三年生を対象にして英語力を調査したところ、英検の中学生卒業程度のレベル三級以下の生徒の割合が「話す」が87.2パーセント、「書く」が86.5パーセントと、「聞く」75.9パーセント、「読む」72.5パーセントと比較して高く、苦手であることが判った。「話す」が不得意なのは昔からだが、「書く」が苦手なのは心配だ。

戦前の英語の学習は、いわゆる「Reader」(読本)が中心で、もっぱら読解力を高めることだった。当時の受験参考書、小野圭次郎(オノケイ)の「英文解釈読解法」が、なんと984版、150万部も売れたことが、これを証明している。「読む」に次いで重要視されたのは「書く」で、戦争中中学生(旧制)であった僕らも「英語一」が読本を読むこと、「英語二」が英作文で、書くことを学んだ。

「話す」「聞く」の英語力が問題視されてきたのは、戦後である。NHKラジオの平川唯一の「カムカム・イングリシュ」の頃からであろうか。それでも日本人の「話す」「聞く」能力は一向に上達して来なかったが、今回の調査で「聞く」が「書く」より成績がよかったのは、受験試験に、リスニング.テストが採用されるようになった結果なのだろうか。

戦前の旧制高校生の英語の読解力と作文力のレベルは高かったが、会話となると、からっきしダメだった。戦後すぐ国際ペン大会が東京で開催された時、僕は著名な英文学者の「通訳」をさせられたことがある。英文学者だから、僕よりはるかに英語力はあるはずなのに、日常的な会話が苦手なのだ。この英文学者に限らず、昔の学者には立派な英文で論文を書く人が多かった。「書く」も日本人は得意だったのだが、苦手になってきたのは心配である。

無意味で軽率な三原議員の「八紘一宇」発言

2015-03-19 06:13:23 | Weblog
自民党の三原じゅん子参院議員が国会の予算委員会で「八紘一宇」という言葉を使ったのは、日本の過去の侵略戦争を肯定するものだと波紋を呼んでいる。麻生太郎財政相が”三原議員のような若い世代が「八紘一宇」を知っていたとは驚きだ”と言っていたが、僕も同感。三原議員が果たして「八紘一宇」の本当の意味を知っていたかどうかは別問題として、誤解を呼ぶような、こんな色褪せた言葉を”戦後70年”のこの時期に使用するのは軽率だ。

「八紘一宇」とは広辞林によると”世界を一つの家にする事。太平洋戦争期、わが国の海外進出を正当化するために用いられた標語”とある。戦争中小学生であった僕も「八紘一宇」を知っている。”見よ東海の空明けて”で始まる「愛国行進曲」(昭和12年情報局制定)の二番には”往け八紘を宇として四海の人を導いて正しい平和打ち立てた理想の花と咲き誇る”とある。三原議員のように本来は”世界が家族のように仲良くしよう”という意味なのだ。

しかし、戦争中のものは、すべて”悪”だという風潮の中で「八紘一宇」は、日本のアジア侵略、植民地主義を肯定するスローガンだと一般には受け取られている。今年は戦後70年で、安倍総理の「70年談話」が注目されており、今から近隣諸国の中には、内容の如何にかかわらず、批判しようと”手ぐすね”引いて待っている。そんな中での「八紘一宇”発言である。誤解を呼ぶ、言わずもがなの無意味な発言である。

戦争中、僕はまだ子供だったから「八紘一宇」の本当の意味を知らなっかのは当然だが、戦争中「スマトラ新聞」の記者であった僕の先輩の菊池秀広さん(故人)は自著「ムルデカに喝采」(講談社出版)の中で「八紘一宇」を現地の人に理解させるのに困ったと述懐している。どれだけの日本人が当時「八紘一宇」を理解していたかは不明だ。

「一期一会」 出会いの不思議さ面白さ

2015-03-18 05:54:06 | Weblog
「一期一会」(いちごいちえ)という言葉をよく耳にする。茶の湯で一生に一度の出会いを表わす語(三省堂慣用句辞典)だそうだが、人生において人と人との出会いぐらい不思議で面白いものはない。「生活不活発病」予備軍で、あまり社会との接触が少なくなった僕だが、最近、これを改めて実感した。

きっかけは今月初め、20年ほど前、仕事で同僚だった女性のIさんから自宅に電話を貰った。懐かしさからで特別な用件があるわけではなかった。昔話をして電話を切ったが、それから数日して今度は知り合いの外交官OBのTさんから電話があって、知り合いの女性を紹介したいから一緒に会ってくれと、言ってきた。変な予感みたいなものが働いて、僕が女性の名前を聞くと、なんと先日電話を貰ったばかりの女性なのである。

数日後、IさんTさんと会食して共通の話題をして楽しんだが、席上、Iさんから、お母さん(92)が戦争中セレベス島のマカッサル海軍病院の看護婦で今なお健在であり、当時「セレベス新聞」の記者だったKさん(95)とも文通があることを知った。僕は早速、このことを知り合いの「スラウェシ研究会」に伝えた。すると、返事が返ってきて、研究会の長老Aさんと、「セレベス新聞」のKさんとは戦時中マカッサルで通りを隔てた、近くに住んでいた仲だという。Aさんは、女性のIさんとも連絡をとり、たまたま持っていた海軍病院の集合写真をコピーして贈った。今月末、AさんはKさんと70年ぶりに再会して懐旧談を楽しむことになった。人の出会いは不思議で面白い。

「生活不活発病」

2015-03-17 05:42:21 | Weblog
早朝のNHKラジオ番組を聞いていたら”健康コーナー”で、「生活不活発病」というあまり聞きなれない病気の話をしていた。身体を動かさない状態が長く続くのが原因で、心身の機能が低下してゆく病気だとのことだ。昨年、一昨年と大病して入院して以来、僕もあまり身体を動かさなくなり、最近ひょっとすると、この病気に罹った、のではないかと思うようになってきた。

若い頃には頑強で、不節制な生活をしていても、医者のお世話にならなったが、二度の大病をしてから急に意気地がなくなってきた。数年前までは早朝のラジオ体操に毎日参加し、一日1万歩を目指して散歩を心掛けていたが、今はとてもそんな元気がない。膝に人工関節を入れた結果、痛みはなくなったが、やはり”本物”とは違って違和感がある。どうしても外出が億劫になってきた。

これではいけない、と思い、特に用事もないのに、老妻から千円札一枚を貰い近くのスーパーまで買物に行くのを日課にするようになった。歩数にすれば往復で2千歩だが、一日家に閉じこもりよりよい。杖なしでもよいのだが、安全のため持参して意識的に大幅に歩くようにしている。そのほか一日一回、昔、子供のつかっていた0.5キロのバーベルを50回上げ下げしているが、この方は時々忘れることがある。

まだまだ寒さは続くが、散歩道の梅は満開、沈丁花の匂いも心なしかしてきた。春の到来も近い。旧友会やOB会のお誘いの便りも舞い込んできた。生きている限り、生活が“不活発”にならないよう、身体も動かすことにしょう。


孫たちのLCC(格安航空)海外旅行とアルバイト

2015-03-16 06:07:39 | Weblog
男孫の二人が今、春休みを利用してLCC(格安航空)で海外旅行を楽しんでいる。上の孫は大学を卒業、4月から就職する最後の休みで欧州へ。下の孫は友人たちとバリ島でマリンスポーツをエンジョイしている。二人ともアルバイトで貯めたカネで出かけているようだが、60数年前、僕が同じ大学生だった時代には考えも及ばなかったことだ。

アルバイトは、ドイツ語の「arbeit」(労働)から来ている言葉で、戦前から一部の大学生の間で隠語として使われていたようだが、一般に使用されるようになったのは戦後すぐの時代だ。僕も大学(予科)に入った昭和23年の夏休み、初めてアルバイトをした。当時、多摩川べりにあった玉川プールで、お客の脱いだ衣類をザルに入れて預かる仕事であった。考えると、この時代にはまだ、ロッカーなんかなかったのだ。

戦後すぐのこの時代は貧しかった。学生のアルバイト先も簡単にはなく、友人たちの中には売血して生活していた者もいた。食料難の時代で、地方から来ている学友の中には、週末故郷に帰り、お米や野菜を仕入れて“ヤミ屋”まがいのアルバイトをしていた。それに比べれば、今の学生たちは恵まれている。上の孫は、自分が世話になった進学塾の講師をし、下の孫は近所のスーパーで働いて旅行費を捻出したようだ。僕らの時代のアルバイトは、生活がかかっていて”悲壮感”があったが、今はそんなことはない。好い時代だ。

ただ心配なのは、欧州へ行く上の孫が利用したLCCが中東の航空会社の事だ。「イスラム国」(IS)に近い国経由で行くのである。冗談ながら、親たちは”国に迷惑をかけることはするな”と、きつく申し付けている。

北陸新幹線開業と東海道新幹線の3分スピードアップ

2015-03-15 06:28:37 | Weblog
北陸新幹線が昨日長野―金沢間が延伸され東京と金沢が僅か2時間28分で結ばれた。一方、東海道新幹線「のぞみ」の最高速度が23年ぶりに15キロアップされ、東京―大阪間が2時間22分で行けることになった。1956年(昭和31年)、東海道線が全線電化されて東京―大阪間が7時間30分になるまで8時間もかかっていた。それを思うとまさに隔世の感がある。

夢の超特急といわれた「燕」が東海道線に登場したのは1930年、それまでの特急「富士」が10時間以上かかって東京―大阪間を走っていたのを一挙に8時間30分に短縮した。「燕」は戦争中の昭和18年、戦争の激化に伴い、一時廃止されたが、戦後「へいわ」の名前を経て、26年「つばめ」で復活した時には、電化されていない区間は蒸気機関車(SL)であった。それでも当時「つばめ」の名前が懐かしかったのだろう。NHKラジオの「日曜娯楽版」で歌われた”僕は特急の機関士”が大流行、”三分停車ではキスするヒマさえない”と話題になった。

最高時速285キロで走る「のぞみ」や北陸新幹線の新車両「かがやき」が各駅で何分停車するか寡聞にしてしらない。安全運転を考え「三分停車」には変わりがないだろう。しかし、スピードは大幅にアップされ、沿道の景色を昔のようにゆっくり楽しむ余裕はなくなった。かっての超特急「燕」には展望車や食堂車があり、旅の喜びがあった。数年先には、今度は新幹線より早い,リニア.モーターカーが登場してくる。老い先短い年寄りには、スピードアップされてもあまり利便はないし嬉しくもない。

国税庁長官はご存知なのか 難行苦行の老人の確定申告 

2015-03-14 09:08:06 | Weblog
”かあさんが夜なべをして・・・”(童謡「かあさんの歌」)作ってくれた確定申告書を持って昨日、老妻と共に渋谷の道玄坂上の「ベルサール渋谷ファースト」という名のおよそ税には無関係なオフィイスに杖を突きながら出かけてきた。昨年までは居住区の税務署で出来たのだが、今年から目黒税務署のほか世田谷、渋谷など六税務署が共同で行うことになった。渋谷駅といえば迷路で老人泣かせ、しかも駅を出て、さらバスを一停留所先まで坂を上ったこの舌をかみそうな貸しビルの二階にある。

国税庁は盛んに確定申告は”E-tax"でと宣伝しているが、後期高齢者のどの程度がPCを操作できるのだろうか。こうして毎日のようにブログを更新している僕でも、他の応用問題となると、頭を抱えて”E-tax"には挑戦できない。

迷路の副都心線渋谷駅を避けて、自宅からバスを乗り継ぎ、場所を聞き、やっと会場に到着したが会場は長蛇の列。手続き完了までに2時間もかかった。狭い通路には、座るイスさえ用意されていない。行列を見ると、十分PCをこなせる若い世代がほとんどである。まだ僕らは杖を突きながらも会場へ行けるが老人ホームに入所したり、”認知症”の高齢者は、どのように対応しているのだろうか。

税金とはいえ、国税局にとっては納税者は”お客さま”だと思う。民間では考えられない”お役所仕事である。たしかに一か所でやれば、仕事は省力でき自分たちには便利かもしれないが、納税者にとっては、たまったものではない。若い現役世代の中には、仕事を休んできている者も見かけた。毎年の年中行事である。老人にとっては難行苦行、何とかならないものだろうか。


二階総務会長の発言と安倍内閣の支持率低下

2015-03-13 06:16:39 | Weblog
自民党の二階俊博総務会長が日本の国益に反する発言をし続けている。二階氏は先日都内で行われた講演の中で「”従軍慰安婦”問題は解決していない。日本にも”言い分”はあると思うが、メルケル独首相がいうように”ちゃんとやらなければならない”」と、まるでどこの国籍の人間だか解からない発言をしている。”言い分”とは何なのか。”従軍慰安婦”は存在しないし、戦前の両国間の問題は、すでに日韓基本条約締結のさい解結づみなのを、この人はご存知ないのだろうか。

二階氏は先頃安倍総理の親書を携え韓国を訪問,朴槿恵大統領と会談、首脳会談実現への”露払い”をしてきた、と自慢しているそうだ。そして、今度は3000人の関係者を引き連れて中国を訪問、中国の首脳と話し合うと豪語している。今回も安倍総理は親書を託するのであろうか。僕にはまるで2009年当時の民主党の幹事長、小沢一郎氏が”一族郎党”を引き連れて、”土下座外交”をしたときの事が思い出される。

安倍内閣の支持率がマスコミの世論調査だと下降気味である。これは民主党の”重箱のスミをつっついた”様な「政治とカネ」の追及や女性政務官のスキャンダルもあるが、僕には党の総務会長という要職にある、数重なる二階氏の発言を黙って許している、安倍総理(自民党総裁)の政治姿勢にあると思われる。日本の新聞は、あまり大きく扱わないが、中国の政府系英字紙「チャイナ.デリー」は二階訪中のニュースを一面トップに掲載しているという。

政治家を辞めた鳩山由紀夫元総理のクリミヤ訪問とは事情が違う。安倍総理の二階氏に対する"黙認”が、安倍総理の指導力低下、党内不一致につながり支持率低下になっているのだ。

90歳 超高齢者社会のお付き合いの仕方

2015-03-12 06:45:59 | Weblog
大正生まれの先輩たちが15年生まれでも89歳。この世代は、ほとんどが従軍体験を持っている。10数年ほど前、大東亜戦争時のインドネシアの軍政を調べるため、各地の戦友会にお世話になった。その関係で今でも10名を超す方々と年賀の交換をしているが、中でも近衛歩兵三聯隊の池上信雄さん(95)からは人一倍のご協力をえた。世話好きの池上さんは、在京のインドネシア関係の集まりには、必ず顔を出し趣味の写真を撮り、相手にプレゼントしていた人として有名な方だ。

その池上さんから今年は年賀状が来ない。どうされたのか心配していたところ、在京インドネシア大使館のHさんも同じ思いだったらしく家に電話したら、息子さんが出て、父は耳が遠く足腰も弱くなり外出を控えているが、車イスならお会いできるという話だった。早速、それでは、ということになり池上さんの95歳の誕生日会を催すことになった。息子さんが車で車イスの池上さんを載せ、会場まで送迎してくれる。

池上さんの誕生会といえば、顔の広い人だから大勢の方が駆け付けてくれると思うが、Hさんと相談して、ごく親しい方だけに声をかけた。僕は戦場で生死を共にした戦友だけに案内の葉書を出した。101歳のIさんを始めお元気な方もいるが、皆さん耳が遠く電話が通じないしFAXもない。3人の戦友から返事を頂いたが、、皆、今年、池上さんから年賀状が届かず心配していたという。皆さん、老人ホームのお世話になっており参加できないが、池上さんが元気なことが判り、安心したと感謝の返事だった。

高齢になると、だれでも他人の介護が必要になる。しかし、介護側は老人の日常の世話だけで手一杯である。多分、年賀状までは気が回らないに違いない。(それより本人が賀状を遠慮するケースが多くなってきた)しかし、超高齢になっても長年の友情を保つには、周りが出来ればそこまで気配りしなければならないのかもしれない。