「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

老人と「PC.DEPOT」の”悪徳商法”

2016-08-21 05:48:14 | 2012・1・1
僕らPCに不慣れな老人にとって、故障にすぐ対応してくれ修理してくれる「PC.DEPOT」は、身体に例えれば”ホーム.ドクター”みたいなものだ。とくに毎日のブログ更新を生きがい?にしている僕にとっては、なくてはならぬ存在だが、ネット情報によれば、この「PC.DEPOT」が老人泣かせの”悪徳商法”をしていて謝罪したという。

”悪徳商法”かどうか判らないが、わが家は「PC.DEPOT」との契約で、ウィルス対策などすべてコミで毎月1万余り円を支払っている。80歳半ばの年金生活者にとっては、高い支出だ。PCには、あまり縁のない老妻は、契約を解除しろと主張しているが、ネット情報によると、契約を解除した70歳代の老人が多額な違約金を請求されたとある。うっかり契約解除も出来ない。

僕だけではない。周囲にはPCに不慣れな老人ばかりである。最近も知人からメールが入り、共通の友人のPCがダウンしたから緊急の用件は電話でと連絡があった。また別の友人からは、メールアドレスを変更したからと通知があった。何故か、この友人はPCを買い替えてばかりいる。操作の誤りが原因しているのかもしれない。

これだけ、PCやスマートフオンが普及しているのに、故障や修理に対応できる会社が少ないのは、どういうわけか。「PC.DEPOT」と契約する前、緊急の故障に困って、家の近くのパソコン教室に修理を頼んだら、出張代として1万円も取られた。PCに慣れた若い世代は好いが、僕ら老人はちょっとした故障でもお手あげである。まさか、これを見越して「PC,DEPOT」が老人泣かせの商売をしているとは思いたくないが。


101歳 長田周子さんのスマトラ軍政秘録

2016-08-20 05:37:56 | 2012・1・1
先日、朝日新聞の”幻の「スマトラ新聞」の記事に関連して小ブログが一文を書いたところ、ジャカルタ在住の女医、サルミヤ.ウスマン博士から、日本軍政初期、博士の父親、マジッド.ウスマン氏(故人)が経営していた、インドネシア紙(「Padan Nippo」)についての貴重な資料を頂戴した。博士の母親,長田周子さんは、日本人で101歳でご健在、今なお、博士と一緒にジャカルタで暮らされている。資料は長田周子さんが、すでに上梓した秘録(未発表)によるものだ。

「Padan Nippo」 は昭和18年6月、「スマトラ新聞」創刊と同時に、マジッド.ウスマン氏が所有していた、インドネシア語の新聞‘ラジオ新聞」を改題して発足、マジッド氏は主幹として健筆をふるっていたが、和蘭時代の年金が日本軍政下、未払いになっている問題を社説で取り上げたところ、第25軍軍政監部の矢野兼二市政長官からクレームがついた。これがきっかけでマジッド氏は「Padan Nippo」を退いた。

サルミヤ博士のご両親のインドネシア独立期の数奇な半生については、小ブログ(2011年6月19日―21日)に3回にわたって書いているが、父親のマジッド氏は”ジャワのスカルノ、スマトラのウスマン”(第25軍史「富の歩み」)と呼ばれたほど有名な独立運動の志士であった。しかし、インドネシアの独立を認めぬとした大本営の「大東亜政略指導大綱」(昭和18年3月)の大波に揺さぶられ吞みこまれてしまった。

長田周子さんの秘録には、二人が戦前東京で、学生運動を通じて結婚、マジッド氏の故郷に帰り、戦争に巻き込まれて和蘭に逮捕されて投獄され、日本軍の上陸によって解放された体験。その後、故郷のスマトラに進駐してきた第25軍の軍政顧問として協力したが、「大東亜政略指導大綱」によって、マジッド氏の考え方が日本の政策に悖るとして、日本に”追放”された経緯などが記されている。インドネシア語で書かれた秘録を現在、サルミヤ博士が日本語に翻訳中とのことである。


敗戦初の日曜日 庶民の解放感

2016-08-19 05:34:56 | 2012・1・1

敗戦から初の日曜日であった昭和20年8月19日の亡父(1874-1968)の日記(写真)には紙面一杯、欄外まで使って次のように記している。
「戦争終了後最初の公休日である。外見にはまだ世相の変化はないが、自分の気持ちには相当違ったものがある。既に防空頭巾と捲きゲートルは廃止した。防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。よく気をつけると、街頭人の服装も国防色が減りつつある。只、困るのは無智都民のつまらぬデマ流布である。けふ(きょう)は床屋も湯屋(銭湯)も休みなので終日在宅」
「聖上陛下は、この日東久爾首相を召され、灯火管制を解き、街を明るくせよ。娯楽を復興せよ。文書の検閲を止めよとの御言葉を賜り、即、政府、臨時閣議を開き、直ちに実施」

中学3年生だった僕は、敗戦2日目の17日。学校から動員解除、20日まで休養を言い渡された。戦争が激化するまでは8月は夏休みであったが、この年はそれどころではなかった。亡父の日記によると、僕は早速、小学校時代の親友の疎開先の家、南多摩郡南村(現町田市)へ泊まり込みで遊びに出かけている。時代を思わせるのは。この時、僕は履いていた靴が小さくて靴ずれができ、それが腫れて寝込んでしまった。国民、誰にでも解放感が出てきたが、わが家では、電気もなくラジオも聞けないない日々であった。

”シナ.ポコペン”の便衣兵  尖閣への武装民兵

2016-08-18 05:51:32 | 2012・1・1
支那事変が始まった昭和12年、小学校に入学した僕らの世代は、まるで支那事変の”申し子”みたいで、まだ10歳前後の子供だったのに、80年近く前に耳にした”シナ語”の片言や蔑視言葉を憶えている。曰く。”シナ.ポコペン””チャンコロ””ノーテンファイラー””マーラカピー””青竜刀”などなど。それらに混じって”便衣兵”も僕の脳裏にへばりつている。

便衣兵(便衣隊)とは”日中戦争時、平服を着て敵の陣地に潜入し、敵を攪乱した中国人グループ”(広辞苑)とあるが、10歳の子供だった僕が、いまだにこの言葉を憶えているのは、当時の大人たちが中国戦線でのチャンコロ兵の卑劣さに腹を立てていた証拠である。南京陥落の日、僕は学校行事で旗行列に参加したの覚えているが、巷間伝わる”虐殺”については当然聞いていない。便衣兵が”虐殺”の対象だったと聞いたのは戦後相当経ってからの事だが、ありうることだと当時思った記憶がある。

便衣兵について想い出したのは、産経新聞が尖閣諸島の領海や接続水域に出没する中国漁船には海軍民兵が同乗しているという記事(8月17日付け首都圏版1面トップ)を読んでからだ。漁船の出発港である福建省泉州発のこの記事によれば、8月初め尖閣水域に公船20隻と共に押し寄せた400隻の漁船には100人以上の海軍民兵が乗りこんんでいたという。

中国船の今回の尖閣水域の行動は、素人なりの判断では先般の南シナ海での中国主権を認めなかった国際司法裁判所の裁定に対する腹いせの示威だと思うが、たんなる示威ならよいが、漁船に民兵が同乗して武装しているとなれば、間違えば一触即発の危険にもなりかねない。わが国も相応の用意をしておかねばならない。

"三日前の古新聞” 朝日新聞の「スマトラ新聞」報道の不勉強

2016-08-17 06:04:22 | 2012・1・1
戦後間もない昭和27年、歌手の久保幸江が歌って大ヒットした「やっとん節」(作詞野村利夫 作曲服部レイモンド)という歌がある。”酒呑むな酒呑むな”のご意見なれど”で始まり”三日前の古新聞読む気があるなら買っとくれで終わるお座敷歌であるが、昨日知人の知らせで、朝日新聞(8月15日付首都圏版3面)に載っていた”幻のスマトラ新聞”という記事を読んだ。

戦時中、大東亜共栄圏各地で発行されていた邦字新聞の一つ”幻”の「スマトラ新聞」が新たにジャカルタの国立図書館で発見されたという内容で”戦時下の軍政に詳しい”、慶応大学の倉沢愛子名誉教授のコメントまで添えている。しかし、「スマトラ新聞」については、すでに平成14年、同紙の記者だった菊池秀広氏(故人)=北海道新聞元論説委員=が「ムルデカに喝采を」(講談社出版サービス)のまえがきの中で”ジャカルタで発見された「スマトラ新聞」はマイクロフィルム化され自分の手元にある”と記し、本のカバーにも使い、実物の一部は日本新聞博物館”(横浜)に寄贈している。今さら新しい話ではない。

朝日の記事はジャカルタ発の原稿だが記事にする前に、記者はこんな基本的な事をチェックしなかったのだろうか。さらに恣意的なのか、無知なのか朝日の”御用学者”の一人、倉沢教授に論評を求めているが、恥ずかしくもなく教授は、”同紙(スマトラ新聞)に載った(ような内容の)研究者はいないはず。軍政の研究に大きな役割を果たし得る”と語っているが、僕らスマトラ研究者の間では倉沢教授が自著の中で、スマトラブキテインギの第25軍防空壕で戦時中ロームシャ虐殺の虚報を書いた人物であり、朝日の”慰安婦路線”のサポーターであることを承知している。

菊池秀広氏は僕が北海道のテレビ局に勤務していた時の上司で、退職後二人でスマトラ旅行をしている仲だが、自著「ムルデカに喝采を!」は系統的に「スマトラ新聞」について書いていないので、生前、菊池氏から聞いていた話をつけ加え小ブログ「1000都物語」(2012年1月)戦時下におけるスマトラ新聞」を6回にわたって書いている。ご笑覧のほどを!


戦前夏休み 遠き日のカキ氷の想い出 スイ、小倉

2016-08-16 05:38:42 | 2012・1・1
戦前、小学生だった少年時代の遠い夏休みの想い出の中に、海水浴場の松林を抜けた十字路にあった、小さなよしず張りのカキ氷屋がある。「氷」と赤字した布の看板があり。風鈴が涼しげに音を立てている。中には手製のテーブルと椅子が幾つか置かれ、手拭の鉢巻姿のおじさんが汗を拭き拭き、鰹節すり器と似た道具の上に氷を載せて手を動かしている。種類はたいがい、イチゴ、メロン、レモンの三つだったが、甘い砂糖水の「スイ」といのもあり、一番値段が安かった。

今またカキ氷ブームだそうである。わが住む町は住宅街だが、土日だけ長い行列のできる「カキ氷屋」さんがる。元々は地元の老舗の和菓子屋さんだが、数年前からネット情報で有名になり、最近は電車に乗って食べに来る人もいる。近所に住みながら、まだ一度も食べていないが、カキ氷といっても昔のような庶民的な値段のものではなく、店の和菓子などをあしらった豪華なもので”おまかせ”は1000円もするという。

海辺のよしず張りとは別に、戦前東京には甘味専門の店が多くあった。母親や姉に連れられて餡みつやフルーツポンチなどを食べた記憶があるが、その中に小倉カキ氷もある。カキ氷に小倉(つぶ餡)を入れたもので、高価であり、また何故か少年には”おナカをこわすから”と食べさせてもらえなかった。その小倉のカキ氷を10年前ほど前、インンネシアのバンドンのAA会議博物館近くのホテル.ホーマンで食べた。メニューにも”Es okura "と記載されていた。このホテルは戦時中、日本軍の兵站ホテルだったので、その名残であろう。

和食ブームで、世界中どこへ行っても「SUSI」「RAMEN」があるそうだが、カキ氷もその有力候補である。といっても、南方の国ぐにには氷を使った同じようなものがあり、果たしてブームになるかどうかは不明だが。 

防空壕で母と聞いた敗戦の玉音放送

2016-08-15 05:37:30 | 2012・1・1
71回目の敗戦記念日である。毎年のことながら、この日になると、天皇陛下の敗戦の詔勅(玉音放送)を聞いた日のことを想い出す。当時、僕は中学3年生で勤労動員中だったが、電力不足で工場が休みで家におり、警戒警報の中、母と共に防空壕の中で聞いた。亡父の勤め(大東亜省)の関係で、すでに僕は敗戦を知っており、敗戦のショックはなく、ただ”これで工場へ行かないで済む”といった単純な喜びだけだった。

今、住んでいる家の駐車場の隅に防空壕はあった。縦2m,横1.5m,深さ1.5mほどの小さいもので、両親と僕と3人で掘ったものだ。昭和19年秋、B-29の本土爆撃が本格化して来た前後から、都会では職場でも家庭でも防空壕造りが始まった。僕の学校でも授業の合間に教師の指導で校庭の段差を利用して造られた。今、考えると、爆弾が直接当たれば、いっぺんに壊れてしまうチャチなものであったが、それでも旧友の一人は、学校からの帰宅途中、池上線の桐ケ谷駅(廃駅)付近で空襲にあった際、防空壕に逃避し爆風を逃れ、九死に一生の思いをしている。

わが家の防空壕は親子3人がやっと座って入れるほど小さなものだった。幸い、わが家は5月23日の空襲で近くに焼夷弾の破片が落下した程度で防空壕のお世話にはならなかった。防空壕は敗戦後も暫らくの間、物置代わりに使われていたが、亡父の日記によれば8月30日には早くも取り壊されている。そして,その跡は家庭菜園にとって変わられた。戦争は終わったが、厳しい食糧難の日々であった。今、防空壕跡、家庭菜園であった場所には、観賞用の夏の草花が植えられ、平和を享受している。

70歳代と80歳代との心身の衰えの違い

2016-08-14 05:59:44 | 2012・1・1

東京首都圏は連日30℃を超す真夏日が続き、若かった頃は暑さには強いと自負していた僕だが、すっかり元気がなくなってきた。日記をチェックしてみたら、ここ1週間、一度も外出していない。熱中症を気遣い、家人が外出を許さないこともあるが、僕自身にもその気力が薄れてきた。これはいけないと、運動不足解決のためリオ五輪の重量挙げ、三宅選手にも触発されて、昔、子供たちが使っていたダンベル(1.5キロ)を持ち出して朝晩1分間体操を始めてみた。

体力の衰えだけでなく、記憶力の劣化も激しい。ダンベルの言葉がすぐに出てこない。重量挙げのバーベルを検索してダンベルにたどり着いた。最近、80代半ばの老夫婦の日常会話には、こういった物忘れがしょっちゅうである。”あの””それ””あれ”と名前がすぐ出てこない。とくに人の名前がそうだ。

10年前はどうだったか2006年の日記帳を調べてみたら、二人とも元気であった。地域の早朝のラジオ体操には毎日参加していた。昼間、炎天下の中でも自転車に乗って、隣の町までスイカや泡盛を買いに出かけたり、バリ島へ8泊9日の旅へ一人で行ったりしていた。が、今はパスポートの期限もきれ、晩酌の習慣も止めた。心身ともに10年間の衰えを感じる。

救いなのはまだ、失われない好奇心と学習心である。恥ずかしながら、この齢になるまで、僕はダンベルが英語の”dumbbell"から来ていて、日本語の”鉄唖鈴”と同じ語源であることを知らなかった。どちらも”音が出ないベル”から来ていることを初めて知った。

岸田外相のドゥテルテ比大統領表敬訪問とラモス元大統領の訪中

2016-08-13 06:09:51 | 2012・1・1
テレビの五輪報道の合間にニュースを見ていたら、フィリピンのラモス元大統領(88)が香港でドゥテルテ大統領の意向を受けて先日、中国全人代の傳蛍外事委員らと会談していたと伝えていた。テレビの画面のラモス氏はキラキラ沢山勲章をつけた軍帽をかぶり、お元気だったが、お国のためとはいえ,ご高齢、ご苦労さなことだ。しかし、一方では、ラモス氏の訪中は南シナ海の領有権をめぐる国際裁判所の判定後の比中間の改善を模索するドゥテル政権の悩みを象徴している。

折りも折、岸田文雄外相が訪比し、ヤサイ外相と会談した後、ダバオへ行きドゥテルテ大統領を表敬訪問した。岸田外相は7月ビエンチャンのASEANサミットで会談したばかりだが、改めて国際裁判所の判定後の南シナ海の領有権をめぐる両国間の立場を再確認し、同時に最近の中国の尖閣諸島海域の行動を比国側に説明できたのは有益だった。それよりも僕が評価したいのは岸田外相が、日本の閣僚としてドゥテルテ大統領と会い話が出来たことだ。

ドゥテルテ大統領については、比国のトランプ的な報道が日本のマスコミでは優先して、対外政策は未知数とされている。が、暗中模索かもしれないが、水面下では、中国との改善について、ラモス元大統領と接触、協力を依頼している。ラモス氏の大統領時代に米比防衛協定が見直され、米国軍がクラーク空軍基地やスービック海軍基地から撤退、その直後から中国の南シナ海での領海侵犯が活発化してきた。ドゥテルテ大統領はその当時の問題解結に当たったラモス氏の経験に協力を依頼したのかもしれない。

外務省のHPによると、岸田外相は、ドゥテルテ大統領との表敬会談では、戦前、ダバオにはマニラ麻の栽培に日本人が多く従事し、地元の経済に貢献していた話にまで及んだという、また大統領からダバオ市長時代にJICA(国際協力機構)の支援協力に改めて謝意が述べたという。過去の大統領と違ってあまり日本には人脈が少ないようである。早い時期での訪日を実現を期待したい。

五輪選手の”賞味きれ”と”消費期限”

2016-08-12 06:34:10 | 2012・1・1
リオ五輪の日本選手の活躍が目覚ましい。朝起きてテレビでその活躍を見るのが楽しい。大会7日目でメダルの獲得数は金7、銀2.銅13、合計22個、すでに金メダルでは前回のロンドン大会の7個と同じ数。これからもメダルが期待できる競技が残っている。連日、真夏日が続く暑さの中、僕は外出をあきらめ、じーっと五輪をテレビで日本選手を応援している。

日本選手の活躍とは裏腹にネットに韓国選手のゴッシプが載っていた。北京五輪の水泳自由形400Mで金メダルを取った選手が、リオ大会にも参加、すでに3種目に出場したが、いずれも予選落ち、このため体調不良を理由に、エントリーしていた残る1500メートル出場をキャンセル帰国したという。この選手は、ドーピングで国際水連から出場禁止になっていたが、禁止令が解け、リオ大会に土下座して出場を乞い、参加したのだという。いくら人材難とはいえ、こんな選手代表に選び、短距離から長距離まで4種目に出場させるとは日本では考えらない。

五輪は4年に1回の開催である。開催年に絶好調期がくればよいが、いつまでもそれが続くわけではない。戦後すぐの時代、世界記録を次々と塗り替え”世界のトビウオ”と言われた水泳の古橋広之進さん(故人)も戦後復活したヘルシンキ五輪では8位に終わっている。韓国選手に同情するとすれば、金メダルを獲った北京五輪から8年も経っている。過去の栄光だけで、選ばれたのか、土下座までして出場を懇願したのを受け入れたのかか判らないが、選手寿命には”旬”がある。代表の選出に当たっては、選手の”旬”を考慮したほうがよい。

関連で、背泳決勝で2回連続メダルを獲れなかった入江陵介選手が”賞味期限は切れていた”が”消費期限は切れていない”と言っていたが、その通りだ。