「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

春分の日 お花見 雪見

2018-03-21 12:28:07 | 2012・1・1

今日は春分の日、彼岸の中日である。”寒さ暑さも彼岸なり”なのだが、今年はすこし陽気がおかしい。昨夕、自宅近くの呑川緑道の桜並木を通ったら、早くも二分から三分の咲で雨に濡れていた。ところが、今朝起きると、気温が下がり、昼前から季節はずれの雪に変わり、隣家の屋根はいつのまにか雪化粧されていた。春分の日にお花見と雪見が同時に楽しめるなんて長い人生にそうあることではない。

遠い記憶の中で八王子に住んでいた時、季節はずれの大雪があったのを想い出し調べてみたら、なんと30年も昔の昭和63年4月8日で、なんと9㎝も降雪があった、当然、桜が咲いた後の雪だったと思うのだが、お花見の記憶がない。平成20年4月16日、旅行先の郡山で雪の中で花見をしたことがる。いくら東北でも4月半ばの雪は珍しい。

70年前の昭和23年3月31日の亡父の日記を見たら”今日は気象庁スト天気予報なし”と書いてあった。時代を感じさせるが、この年の天候は不順だったようで”春なれどまだ春ならぬわが家に攻めて咲けかし花一輪”-僕の大学入試が失敗続きの頃の歌でもあった。花冷えという言葉あるように、この季節は、雨が多く気温がさがれば雪になるのは不思議ではないのだが、春への期待感が多いだけに雪見の気持ちにはならない。

安倍長期政権に黄信号 「森友」文書改竄

2018-03-20 05:25:47 | 2012・1・1
「森友」文書の財務省の改竄をめぐる参院予算の集中審議を昨日テレビ中継で見たが、正直言って国民には真相がよくわからず、行政への不信が強まるばかりだ。政府側の回答は肝心なところへ来ると、司法が捜査中で”逃げて”しまう。それなら捜査が終わった時点で審議すればよいと思うのだが。

NNN(日本テレビ)放送網の世論調査によると、安倍内閣の支持利率は5割を割り込み、30.3%と急落した。第二次内閣発足以来5年余りで最低。逆に支持しない率は53%と支持、不支持が逆転した。プーチン露大統領が選挙で大勝し2024年まで、習近平中国国家主席が全人代会議で2013年以降もトップの座を確保したのに対し、安倍総理は今秋の自民党総裁選挙に黄信号が灯ってきた。

ちょうど1年前の今頃も安倍内閣は「森友」と稲田朋美防衛相の国会での虚偽答弁が原因して支持率が急落していた。僕は3月16日の小ブログ”支持率低下、賞味切れの晋ちゃん内閣”で、第一次内閣(2006年9月―07年10月}末期、FNN(フジテレビ放送網)の世論調査で、内閣支持率が26%、不支持率が64%のどん底状態時を紹介した。”女性は産む器械”"原爆投下は当然”など閣僚失言が続出していた頃だ。

振り返ってみると、「森友」問題は2年越しである。籠池理事長夫妻の詐欺罪逮捕で一件落着したと思っていたがまだ続いている。安倍総理は1年前、事件はマスコミのイメージ操作だと言っていたが、役所の文書改竄が飛び出してきた。国民は事件の真相を知りたがっている。二度と同じような事が起こらない様、誠実に回答してもらいたい。、

"余命一輪老桜ひそやかに"  呑川緑道の桜

2018-03-19 06:17:27 | 2012・1・1
東京に桜開花宣言に出たが、わが家近くの呑川緑道は如何がかと訪ねたが、まだ蕾のままだった。中で一輪、老樹の幹に一輪可憐な花を咲かせていた。(写真)そこで即興に一句”余命一輪老桜ひそやかに”。

呑川緑道は東京世田谷の深沢あたりを水源にして目黒、大田区を通り東京湾に注ぐ全長14.4キロの河川の上流4キロを暗渠にした部分である。この流域に昭和47年頃、ソメイヨシノなど桜300歩が植えられ桜の隠れた名所となっている。

桜が植樹された47年前、東京は公害のまっ盛りであった。近くを走る国道環状7号線の影響もあって、空は晴れた日でも太陽が見えず、呑川も下水道たれ流しで悪臭さえした。小学生だった長男は小児喘息になり病院通いをした。

偶然にも昭和46年、転職転勤の話がり56年まで10年間、僕は東京を後にして家族ぐるみ郡山、札幌に在住した。結果的にはそのおかげで、子供の喘息も回復、僕も公害全盛期の東京は知らないで済んだ。約半世紀を経て、呑川に植えられた桜も老木となり、一部は病害で枯れ始めてきたが、満開の頃は花見客で賑わう。しかし、最近すっかり名所になった目黒川の桜とは違い”緑道”である。月末には満開になろう。僕もあと残り少なくなったお花見をひっそりと楽しもう。

卒業70年母校の”ホームカミング.デイ”

2018-03-18 05:44:08 | 2012・1・1
東京に例年より9日も早く桜の開花宣言が出た昨日、母校(旧制中学)攻玉社の”ホームカミング.デイ”に招かれて出席した。母校では12年前から卒業30年、50年の節目の年の卒業生と85歳以上の高齢者をお祝いの会に招待してくれる。昭和23年(1948年)卒業の僕は、ちょうど70年、古希の年にあたる"”ホームカミング.デイ”であった。

母校、攻玉社は歴史は古く、文久3年(1863年)東京芝新銭座(現在の浜松街1丁目)に地に慶応の福沢諭吉と並ぶ明治の教育者、近藤真琴によって創立された。今年で154年目に当たる。創立当初は海軍操練所と呼ばれたこともあり、明治、大正、戦前昭和にかけて,鈴木貫太郎海軍大将(42代総理)を初め海軍の将軍をキラ星のように輩出している。校名は”他山の石以て玉を攻く(みがく)べし”(詩経)から来ている。

僕が卒業した昭和23年は戦後の学制改革の年で、僕は旧制中学を卒業、旧制大学予科に進学したが、級友の中には新制高校3年に横すべりした。そのためか卒業免状は貰っているが、卒業式は行われていない。時代もまだ、町のあちこちに焼跡が残っていた。母校も校舎は空襲で焼け残ったコンクリート三階校舎だけで、それも所どころ破壊されて応急手当が施されたままだった。

僕らが戦争中、教練に励んだ校庭は狭くなったが、1号館から4号館まで校舎が建ち、防空壕のあった場所には室内プールまでできていた。母校の現状報告があったが、70年前には一人しか旧制一高に入学できなかった、今年は13人も東大に入学している。母校の弥栄を祝して、昭和12年卒の最長老(98歳)の音頭で杯を交わしてきた。

孤独死 認知症 見守りサポーター

2018-03-17 06:23:32 | 2012・1・1
僕が今住む東京の目黒区の区報で高齢者の孤独死や認知症に対して区民に”気づいてください””あなたの声で守られる”と呼びかけている。その中で例として、一週間ほど新聞が玄関の郵便受にたまっていたら心配です”と写真で注意を引いていた。その通り、新聞を見たら北区の都営アパートの一室で85歳の妻が介護ベッドで、夫が別室の布団の上でなくなっていた。夫婦しての”孤独死”らしく、先月末からの新聞が玄関にたまっていたという。

わが家の東隣りに数年前まで古い木賃のアパートがあったが、孤独死が発見されたのを機会に家主が建て替えた。しかし、建築会社に一切、管理などをまかしているためか住民の姿をほとんん度見たことがない。大型連休には、新聞が一杯受け取り口あふれている、防犯上も危険であるが、手を出すわけにはいかない。

昔、東京には引越しの挨拶として向こう三軒両隣りへ蕎麦を配る習慣があった。〝そば(側)に近づきました”という江戸っ子の洒落から来ていたらしいが、今は出前の制度もなくなりなくなった。この結果、隣に引っ越してきても挨拶までなくなってしまった。幸いわが町は熟成しており、僕が杖をついて散歩すると、同じような高齢の女性が一言声をかえてくれる。区の広報には、認知症の見分け方として、季節はずれの服装を例にあげているが、老妻に言って、せいぜい、服装には注意して貰おう。笑い話ではなく、問題はお互いの社会への温かい気配りだ。

わが街にまだ聞こえてくる豆腐屋のラッパ

2018-03-16 06:01:33 | 2012・1・1

"暑さ寒さも彼岸まで”-ここへきて陽気だけでなく、日中の長さも一時に比べて一段と長く感じるよになった。午後5時をまわっても東京の西の空はまだ明るい。その夕陽を浴びて昨日もわが街に豆腐屋のラッパが響いてきた。”プ―ツ、プーツ”という、あの昭和の響きである。老妻の話では、昭和30年、新婚当時から隣の町から自転車の荷台に載せてやってくる二代目のおなじみの豆腐屋さんだ。

豆腐屋のラッパの音を聴くと、子供だった昭和の10年代を想い出す。軍靴の音が次第に大きくなり始めてきた頃だが、東京の街にはまだ色々のの物売りの音が聞こえてきた。順不動に列挙してみると、朝早くの納豆売り、”イワシ子やイワっ子”の鰯売り、鋳掛屋の”とんとん”とした音、ラオ屋から聞こえてくる”ピーツ、ピーツ”という蒸気音、紙芝居の拍子木、それに冬の夜空、遠くから聞こえてくるチャルメラの音などなど。

スーパーなど大型量販店の進出で、街の様相が一変、昔ながらの小売店が店を閉じ、いつのまにかわが街から豆腐屋さんもなくなった。スーパーへ行けばいくらでも安い豆腐が手にはいる。しかし、昔ながらの”いっちょう”いくらの豆腐の味ではない。それに形も”いっちょう”より小さい気がするのだが。若干、値段は高いのかもしれないが、老妻が通りまで出て行ったら、わざわざ家まで届けてくれた。ラッパの音には昔ながらの商人魂まで込められている。

97歳の先輩からの貴重な資料

2018-03-15 06:20:24 | 2012・1・1
昨日暖かい春の陽気に誘われて50日ぶりに老妻に付き添われバスに乗って大型スーパーの7階にある格安理髪店で頭を刈った。平日老人サービスでたったの千円である。昨年まで行っていた駅前の店は洗髪つきだが4千2百円、4分の一で済む。2年前、102歳の長寿をまっとうした先輩は、日頃年寄りは清潔にせよといわれており、僕もそれに努めてきたのだが、加齢とこの冬の寒さでつい無精になっていた。

反省しきりの生活の中で、97歳の先輩からお願いしていた戦時中のスマトラ.メダン(インドネシア)の紘原(ひろはら)神社の資料が届いた。残念ながら先輩はメダンには駐屯していなかったが、近衛歩兵第5連隊史に写真があったとコピーを送ってくれた(写真左)写真右は戦後の1998年、僕が撮った現在の神社だが、よくみると頂いた写真の右側には、今はない本殿らしい建物がある。戦争中の神社の写真は初めて見るものだ。

先輩は写真と一緒に近況を知らせて頂いたが、東京郊外のまだ自然が残る立派な有料老人施設に92歳の夫人と一緒に暮らされており、毎日、同じ施設内の仲間(97歳-78歳)と囲碁三昧の生活を送られている。”よき友人”に恵まれて今年の年賀状も百枚出状したそうだ。

先輩ご夫婦は僕らより10歳も年上である。僕ら夫婦は今のところ元気で自宅で生活しているが確実に老いは深まってきている。先輩ご夫婦の老後は理想的だと思いながらも先立つものはーである。

改竄(かいざん)か書き直しか 森友文書の疑惑

2018-03-14 06:21:04 | 2012・1・1
新聞紙面の活字に「改竄」という難解な活字が踊っている。竄の字は書いてみろと言われてもかけない。中国の古典「晋書.阮籍伝」に出てくる言葉で、もともとは詩文の語句を改めたり、別の字句を新たに入れたりする意味だったが、今は悪用する目的な場合が多い(三省堂慣用句ことわざ辞典)

今回の森友文書は、新聞によっては”書き直し”の字句を使っているが、改竄の方がピタリとする。改竄の報は朝日新聞のスクープだという。正直言って森友問題は、昨年、当事者の籠池理事長夫妻の詐欺罪逮捕によって事件は一件落着したかのような印象を社会に与えていた。改竄が昨年2月から4月にかけて国会での籠池理事長喚問の時期にあわせて行われていたという。

改めて、当時の小ブログを読み直しながら当時を思い出してみたが、何故か証人として呼ばれた財務省の佐川理財局長の顏が浮かんでくる。全く無表情の顏で”お答えします”の常套句で始る答弁は、ある意味では同情したものだが、事前に改竄された文書による答弁だったのである。佐川局長が何故こんな芝居をしたのか、自身の判断によるものだろうか。

改竄に関係がるのだろうか。財務省出先の近畿財務局の事件担当者が自殺している。罪な話である。やはり野党が強く要求しているように佐川局長の国会召喚は当然である。それより、事の重要性からみて、麻生財務大臣は即刻辞任し、場合によっては内角も解散すべきだ。さもなければ、安倍総理自身の疑惑も晴れない

”忖度”の強制はなかったのか、あきれた森友文書書き換え

2018-03-13 06:38:00 | 2012・1・1
あきれ果てた、これ以上、国民をバカにした話はない。昨年2月から4月にかけて、国有地売買をめぐる森友学園事件が連日のよう国会で審議され、参考人として財務省の佐川宣寿理財局長がが呼ばれ、ほとんど無表情で質疑に答えていたが、その答弁のネタ元の文書は事前に答弁に都合よく書き替えられていたというのだ。それも14文書、200か所に及ぶという。

昨年度の流行用語に「忖度」が候補に挙がったが、国民は森友事件の背後には周囲の安倍総理への忖度が働いているとは推察していたが、安倍総理は頭から事件への関与を否定し、事件はマスコミのイメージ操作だと言い切り、そのうち、いつのまにか事件当事者の籠池泰典理事長夫妻が詐欺罪で逮捕されて事件はいつのまにか一件落着、秋の総選挙の勝利で幕が引かれたと思っていた。

麻生太郎財務大臣によると、文書の書き替えは理財局の一部の者が行ったとしているが、当然、その長であった佐川局長は責任はある。しかし、誰がこんなに大幅な文書の書き替えを命じたのか。目的は明らかに安倍総理への政治的な忖度である。佐川局長は事件の後、国税局長官に昇進しているが、忖度の論功行賞なのだろうか。

問題は一局長の個人的な忖度ではなくて、財務省トップからの”忖度”の強制があったかどうかである。安倍総理は事件への関与があったら辞任すると言い切っており、多分ないと思う。しかし、周囲の忖度は、議会民主主義に反するものである。「北」の問題で世界情勢が流動的な今、解散は困るが、ここは野党がいうように内閣解散であろう。

震災から7年目に達成した帝都復興祭

2018-03-12 06:39:50 | 2012・1・1
東日本大震災から7年目の昨日、政府主催の追悼式が東京の国立劇場で催され、秋篠宮夫妻も列席された。今朝の新聞は被災地をはじめとする震災関連の追悼記事で一杯である。僕も7年前、東京で体験したあの強い揺れと、そのあと東北沿岸を襲った大津波、福島原発事故など、すさまじいテレビ画面を食い入るように見たことが、昨日の出来事のように想い出される。

あれから7年である。学校の卒業行事で東京ディズニ-ランドに行っていた当時中学3年生の孫が大学生である。僕自身についていえば、この7年間に二度にわたる大腸ガン手術など4回も入院生活を経験している。確実に歳月は流れており、テレビの画面をみると、被災地の復興も進んでいる、しかし、一方では依然として7万2千人が避難生活を送っている。

今、震災というと東日本大震災のことを言うが、僕ら昭和1ケタ世代は、今でも大正12年(1923年)9月1日の関東大震災のことをいう。子供だった頃、僕の家にも関東大震災の写真帖があり、それに混じって「帝都復興祭」の写真ブックもあった。その華やかな復興祭の催しが今でも印象に残っているが数年前、都内の震災関連の施設に寄贈してしまった。

昨日の7年目の追悼式の機会に「帝都復興祭」は何時だったか調べてみたら昭和5年(1930年)3月24日に行われていた。関東大震災から7年目なのである。もちろん、東日本大震災とは津波などの規模、原発事故など違うが、7面目で復興は達成できていた。安倍総理は機能の追悼式で”国民へのことば」を発表していたが、追悼より実行、もっと復興へスピード感が欲しい気がするのだが。
(写真は関東大地震写真帖 倒壊した12階建て陵雲閣)