「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”若き血潮の踊る” 勝ち進む母校の野球部

2018-07-11 05:24:42 | 2012・1・1
“珍事だよ”と80年来の竹馬の友から、母校攻玉社野球部がが昨日、東京東大会2回戦予選で、相手の大東大一高に8対1でコールド勝ちしたと伝えてきた。ここ20年ほど、毎年、この時期には応援に駆けつけていたのだが、“寄る年波で”近年は遠慮していたのだが、今年は1回戦で早稲田高校を12対8の接戦で打ち勝ち、この快挙だ。次回は14日神宮球場、相手は第一シードの関東一高である。不足はない。

僕の学年は戦争を挟んで5年間(旧制中学)、野球の応援に出かけたのは2回しかないが、今でも戦後復活第一回(昭和21年7月)の東京高師付属中学との1回戦は忘れれない。18対6でコールド負けしたのだが、グランドは同校の砂利まじりの校庭で観客席もなく、当方の選手はスパイクもなく地下足袋をはいていた。高師中は、その年、東京大会(53校参加)で優勝、西宮球場での全国大会でも準優勝している。

攻玉社の応援歌「大洋の水」の一節に”歴史は古き百余年、遠き歴史も忍にも、若き血潮の踊るかな”がある。僕の時代は80年だった.。応援団長の鉢巻き羽織姿の手拍子にあわせて三三六拍子の応援だったが、今はブラバンの応援だ。PTAのお母さんたちの応援も昔はなかった。

80歳の老体の中には”若き血潮”は踊っているのだが、天気予報は35℃を超す猛暑日だ。”年寄りの〇〇”にならないよう、自宅で応援、CATVでdaダイジェスト版を見ることにしよう。

豪雨被害から4日、死者157名、不明56名

2018-07-10 05:07:38 | 2012・1・1
気象庁は今回の豪雨災害を「平成30年7月豪雨」と命名したが、発生から4日経っても人的被害は増え続け倉敷市真備町では新たに14人の死亡が確認されて、NHKテレビ.ニュースは死者157名、行方不明56になったと伝えている。平成になって以来、最大の被害である。被害が1府13県と広域にわたっていることもあるが、発生からこんなに長時間たって今なお50以上も行方不明者がいるのは異常である。

NHKテレビの地上波放送は9日一日、画面左横の固定テロップで「死者○○人 不明○○人」と表示、さらに横の流れテロップで最新のニュースを流していたが、昨日から一挙に倉敷市真備町の死者数が多くなった。真備町は市内を流れる川の堤防が決壊し、浸水したが、、画面で見る限り、4階建ての病院もあり、住民への被害は少なかった印象だったが、水が引いたあと犠牲者があることが判った。

現地では自衛隊を中心に懸命の捜索活動が続いているが、いまだに死者が大勢発見sれているのは異常である。気象庁の事前予報、地域自治体の住民への警報伝達方法、それとも住民の危機意識の希薄から来たものか。人的被害だけでなく、豪雨により交通インフラが破壊され、断水、停電などライフラインにも甚大な影響が出ている。天災ではあるが、何か人災も原因しているようにみえてならない。

今なお被災地では1万人もの人たちが不自由な生活を送っているが、早くも新しい台風が沖縄の先島方面に発生、針路によっては襲来の恐れもある。宿命とはいえ、備えあればやは憂いなしである。”コンクリーとより人間”という時代があり、治山治水まで軽視されたが、そのツケが回ってきたとは思いたくないが,再チェックの必要はある。

土砂崩壊は人災ではないか 西日本集中豪雨

2018-07-09 05:14:16 | 2012・1・1
九州から東海にわたる15府県の広い地域に降った今回の集中豪雨で、被害が時が経つにつれて増えてきている。気象庁は事前から最大級の表現を遣って住民に注意を呼び掛けていたが、自然災害は避けられない。しかし、テレビの画面を見ると、昔はあまりなかった土砂の崩壊による事故が目立つ。治山治水には素人だが、人災ではないのだろうか。

わが国は地勢的にも気候的にも自然災害国である。13世紀の鎌倉幕府の3代将軍、源実朝は金槐和歌集の中で”時により過グれば民の嘆きなり、八大竜王、雨やめたまえ”と歌っているが、実朝は27歳で暗殺されるまでの短い人生の中で豪雨に直面、本来は祈雨の神である八大竜王に願いを乞うている。いつの時代でも同じである。

谷崎潤一郎の「細雨」で有名な阪神大水害は、やはり昭和13年7月に起きている。六甲での3日から5日までの総雨量は瞬間雨量は617ミリを記録住吉川,石屋川などが氾濫して土石流となリ、神戸市だけで616人が亡くなっている。しかし、豪雨による被害は阪神地区だけにとどまっている。

今回の豪雨災害の特徴は、山奥の小さな集落や離島での土砂崩壊が多いことだ。空中写真でみると高い崖が崩壊、赤茶けた地表をさらけ出し、その下に家屋が埋没している同じ構図である。集中豪雨だけではない。山林の日常管理に問題があるとしか思えない。そして流失した倒木が、下流に流れて橋にぶつかり、川をせき止める。限界部落と水害、無関係とは思えない。人災である。そし


大東亜戦争発端の昭和12年7月7日 盧溝橋事件の記憶

2018-07-08 04:51:35 | 2012・1・1
昭和12年(1937年)7月7日は支那(日支)事変の発端となった盧溝橋事件の起きた日だ。大東亜戦争勃発直後の16年12月12日,東條英機内閣は閣議決定で”(この戦争は)支那事変まで含めて大東亜戦争と呼ぶ"と決めている。これにならえば、大東亜戦争は81年前の昨日、7月7日、北京郊外盧溝橋の日本軍夜間演習地へ撃ち込まれた支那軍の一発の砲弾で始まった。

当時小学校1年生だった僕は、支那事変そのものについは、はっきりと覚えているが、盧溝橋事件当日の記憶がない。後年、不思議に思い調べてみたら当時毎日のように日支間に小競り合いがあり、8日の亡父の日記も”盧溝橋で日支兵間の衝突”と簡単に書いておリ、11日の日記には”再衝突あるが、和平交渉”と書いており、子供だけでなく、大人も盧溝橋の一発が世界戦争になるとは誰も思わなかったに違いない。

最近、テレビを見ていても若い芸人たちの”笑い”についていけなくなった。一方、老人向けのラジオ深夜まで面白くなくなてきた。理由は自分が年を取りすぎたからである。総務省統計局の平成29年のHPによると、75歳以上の後期高齢者の日本人全体の比率は11.1%に過ぎないのである。そのうち、盧溝橋事件の記憶があるのはなん%いるだろうか。

福田(康)元首相が、先日「南京虐殺博物館」を訪れ、中国メデイアによると、日本人は過去の歴史を勉強すべきだと語ったという。 福田元総理は昭和11年生まれ、盧溝橋事件も”南京虐殺”も記憶にない。 





オーム.サリン ハルマゲドンの時代

2018-07-07 05:54:38 | 2012・1・1
オーム.サリン事件の麻原彰晃こと松本志津夫ら7人の死刑囚の刑が昨日執行された。地下鉄サリン事件が発生した1995年(平成5年)から、すでに23年、最高裁で死刑が確定してからでも12年、正直いって遅い感じがする。しかし、事件の凶悪、重大性性からみてやむをえないのかもしれない。でも、日本の社会を震撼させた事件もこれで一件落着ほっとした。

死刑の執行を期に改めて1995年という年を振り返ってみたら大変な年であった…1月17日には、M7.3の淡路関西大地震が発生、6401人もの人が亡くなるなど大被害が出ている。その2か月あとの3月20日に、このサリン事件は起きている。一連のサリン事件の際、ハリマゲドンという言葉がオーム関係者の間で使われ流行語友なった。”世界の終末における最後の決戦”という意味のキリスト教用語である。

当時の世相はどうだったか。91年のバブル経済がはじけ、浮かれた時代は終わっていた、政治的には社会党の村山富市委員長首班の自民党、新党さきがけ連立の安定政権ではなかった。オームが組織内に“省庁”を設け、閣僚を任命したのも、パロデイではなかったのかもしれない。

1995年は戦後50年、半世紀の年でもあった。その意味で日本全体が改革のを目指した年でもあった。僕個人も65歳、人生の転換期で仕事をやめ、”第二の人生”を模索中であった。しかし、今考えると、この時期、僕には、”乗りに乗っていた”時代で、家も新築、自著も出版 ハルマゲドン的な考えはなかった。しかし、当時の若い世代には将来への不安があったのだろうか。

イスラム教徒と京都の庭園観光

2018-07-06 05:45:38 | 2012・1・1
京都のホテル、旅館などに宿泊した人の数が平成29年度、1,557万人と過去最高だったという。この増加の牽引役になったのは外国人の宿泊者で353万人、約四分の一で、前年比10.8%という高い伸びだ。最近の外国人観光ブームは全国的だが、やはり、京都はわが国の観光地の”メッカ”だ。

その京都なのだが、1980年代から90年代にかけてJICA(国際協力機構)の研修事業の一環として、途上国の研修員を観光に引率したことが多かったが、困ったのはイスラム教徒が神社仏閣への行くのを拒否することであった。サウジアラビアの高官を案内したときは、事前にバスまで用意していたが、急遽、博物館や動物園に予定を変更した。

当然のことだが、京都観光の目玉は、古い神社仏閣巡りであり、案内書にも書かれてあるが、異教に対して厳しい考えを持つ、イスラム教徒は寺社への入門さえ許されない。日本人にとって、神社仏閣は信仰の対象だけでなく、その庭園が観光である。例えば、平安神宮の広大な庭園の四季折々の風情は神社の建物以上に魅力がある。

昔、イスラム教徒を京都に案内したとき困った一つは、戒律の厳しい食事と日に4回義務付けれいる祈祷の場所探しだったが、最近は京都モスクもあり、ハラール(イスラム教徒が処理した〉ラーメンさえあるそうだ。国際化のためにはよいことだ、そこで提案がる。庭園から見た京都の観光案内書である。二条城さえお寺と誤解しているイスラム教徒もいる。庭園は、信仰には直接関係がない。日本庭園を中心にした観光案内書があってもよいのでは。

”僕は大臣大好きよ” 気になる胸のバツジ

2018-07-05 05:13:28 | 2012・1・1
テレビの画面を見たら世耕弘成経済産業担当大臣の背広の両胸に幾つもバッジが付けられ、その上、あまり見たことがない黄色の飾りの羽根までぶら下がってる。クールビズの議員が多い、国会の中では僕にはなんとはなく暑そうに拝見する。それより、この羽根は何なのか。赤い羽根は共同募金、緑の羽根は植林、国民に呼びかける意味があるが、世耕大臣の胸の羽根はわからない。

安倍晋三総理と麻生太郎副総理は、左と右の違いこそあるが、拉致問題のブルーリボン.バッジをつけているが、そのほかの閣僚は議員バッジだけが多い。が、世耕大臣は、昔の軍人さんみたいだ。戦争中に育った僕らの世代には”僕ら軍人大すきよ、今に大きくなったなら、勲章付けて剣下げて、お馬に乗ってハイ ドウドウ”の歌を想い出し、苦笑してしまう。

防衛省の武官が儀典用の制服に勲章をつけるのなら抵抗はないが、大臣が勲章代わりに幾つも胸にバッジをつけるのはどんなものか。TBSテレビがドラマの中の「悪徳政治家」役の小道具としてブルーリボン.バッジを胸につけさせたという。拉致の被害者には申し訳ないが、森友学園の前理事長の胸にもこのバッジがつぃていた変な連想からだろう。

それにしても、世耕大臣の胸の羽根は何なのだろうか。菅義偉官房長官もこれをつけている。暦を見ると、7月は「社会を明るくする強調月間」が行われているが、所管からいって違う。多分、大臣は「原子力経済被害」を担当されているから「全国安全週間」(1日ー7日)にちなんだものと思うがわからない。








驚くタイ.少年サッカー.チームの生命力

2018-07-04 05:34:17 | 2012・1・1
タイ北部のチェンライ県で、サッカー.チーム12人がコーチとともに洞窟に迷い込んだが不明9日後、無事発見された。少年たちは洪水で水ましされた洞窟内に取り残され見つかったのは入り口から2.5キロも奥地だった。この間、少年たちは水だけで生活していたという。信じられない。奇跡としか言えない。

僕はこの話を聞き、昔子供のころ読んだフランスの作家、ジエール.ヴェルネの「15少年漂流記」を想い起こした。確か米英仏3か国の少年がニュージランド沖の無人島に漂着、発見されるまで2年間、洞窟内で暮らす話だった。百年以上前に書かれた小説だが、子供たちの冒険心を誘い面白かった。

僕の少年時代は戦争中だったが、まだ東京でも冒険心を誘う遊び場があった。省線(JR)五反田駅近くの鉄道官舎の裏山には、横穴があり、ここが”兵隊ごっこ”の場所であった。近くを流れる目黒川の下水道の奥深く入って遊んだこともあった。今考えれば危険なことだった。

東京は今やコンクリートジャングルと化した。戦前どこにでもあった”原っぱ”などない。冒険心があってもそれを満足させる場所はない。まだ7月に入ったばかりなのに、真夏日が9日も続き39年ぶりの記録だという。これでは、冒険心どころではない。子供たちは”熱中症にかかるから”と親から外出を禁じられる。それにしても、タイ少年たちの生命力はたいしたものだ。そして、10日間も、少年たちを無事統率したコーチの指導力は称賛に値する。




他人事ではない済州島へのイエメン難民

2018-07-03 05:16:20 | 2012・1・1
インターネットで話題探しをしていたら、隣国韓国のリゾート地、済州島へイエメンから難民が大挙して押し寄せている記事を見つけた。その数は今年に入って6月までに524人、半端な人数ではない。済州島は博多から海上100キロ、対馬からは50キロのの距離にあり、歴史的にも日本と関係が深い。事の起こりは、韓国政府が観光振興のため、済州島でのビザなし滞在を許可した。これをMSA情報で知ったイエメンの難民が同じイスラム国のマレーシア経由で群来してきた。

僕は半世紀以上前の1962年、新聞社の特派員としてイエメンの王政崩壊クーデターを取材しており、関心が強いのだが、イエメンは2015年以来、サウジアラビアの支援をえたスンニ派の政府と、イランが応援するシーア派(フーシ派)の反対勢力が内戦状態にあり、すでに5万人を超す犠牲者が出ており、難を避けて難民が世界各地へ流出している。

法務省の記録によると、わが国でも難民申請が7年連続増えており、昨年度は19625人に上っている。しかし、これは政治混乱などが理由ではなく、難民申請すればそれだけで何年間かは滞在が可能で、就労もできるという法の裏を利用したもので、フィリピン、ベトナム、ミャンマーなど東南アジアからの就労目的の人が多い。

1990年代の初め頃、イラン人が大勢来日して東京の代々木公園などに野宿して問題になった。その当時の影響が今でも残っていて、イラン人の不法滞在が多いという。済州島のイエメン難民も他人事ではない。外国人観光ブームで沸いているが、そのまま不法滞在者もでているのではないだろうか。追跡調査も必要だ。

福田(康)元総理の「南京虐殺」博物館訪問と危なかった一昔前の外交

2018-07-02 05:10:14 | 2012・1・1
十年一昔というが、10年前の平成20年(2008年)7月、小ブログが何を書いていたか読み直ししてみたら、8,9の両日、北海道の洞爺湖で開かれたサミット会議に絡んで当時の福田康夫内閣を5回も批判していた。サミットが北海道で開催されながら、来日するベドジェーエフ露大統領との間の「北方領土」問題についての話し合いを断ったり、すべてにわたって”ことなかれ”主義だというのである。振り返ってみると、当時の福田内閣の外交は、確かに拉致問題にしても対韓外交にしても解決への積極性が見られない。

その福田康夫氏が先日、上海での学術会議に出席した後、足を延ばして南京にでかけ「虐殺博物館」を見学、犠牲者に献花した後、黙祷”戦争の悲劇を繰り返さない、大勢の日本人がここを訪れ、歴史を学んで貰いたい”と語ったという(中国メデイア)あの、事なかれ主義の福田元総理の言葉としては信じがたい。それとも中国側の言う30万人虐殺を歴史として信じているのだろうか。それよりも大勢の日本人が歴史を学ぶため、訪れよというのは元総理の言葉ではない。

福田(康)は戦前生まれ(昭和11年)といっても敗戦時、「国民学校1年生」を歌った世代で、戦争については実体験はない。多少なりとも戦争体験があれば、南京攻略戦で30万人も虐殺されるなどありえないことだ。戦争である。広島、長崎の原爆の例を挙げるまでもない。福田(康)氏が総理時代、こんな戦争観をもって、すべて”ことなかれ主義で”当たっていたのだろうか。外交が停滞し、わが国にとっては危険な時代であった。