Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

ヴァーチャルアイランド・プログラム36.

2009年02月11日 | Design&3DCG
 ヴァーチャルアイランドも、きりの良い40回までは続けようと思う。そう思っただけだが。今日は話題を広げて、12年前に名古屋に来たときの、一般的な第一印象について記しておこう。
 私自身東京の都心に生まれ育ち、そして六本木にある大変著名で癖のあるプロデュース企業で多彩な仕事を行い、雑誌にも取り上げられる程の多数の仕事をしてきた。だがテレビに至っては、数多くの取材依頼を受けたが、ほとんどは断っていた。それには理由があるが、そんな立場で少し述べよう。
 もっと具体的に言えば、何かを東京人に訴えかけようとする企画を立てたら、絶対にテレビに登場するタレントを使ってはならない。それは、私が仕事をしていた頃の不文律である。東京人は、テレビというものを信用していない。確かにクイズ番組は八百長だし、ネイチャー番組はやらせでしかないことは、東京人の認識である。だから、東京で良い仕事をしようと思えば、既に著名な人間は使えないことになる。
 だから私達が、企画の場面で心していたのは、テレビに登場しない、それでいて情報発信力ある実力者達である。そうした人間達を捜そうと思えば、比較的容易にみつかるところが、東京の集積力の凄さなのであろう。つまり東京人というのは、まだ人に知られていない未知情報を発掘し、情報発信してゆくところに最大の価値感を置くわけである。
 対して当時の名古屋では、テレビにでていれば、一も二もなく信用し、大学の人気も高まる風潮があった。そうした格差があることに、名古屋に来たときの私は驚いた。つまり名古屋は、既知情報に価値を置く田舎そのものだった。東京の未知、名古屋の既知、そうした違いは、都心で育った当時の私の第一印象であった。
 ヴァーチャルアイランドやプロデュースの話をしていて気がつくのは、首都圏の大学では人気が高く毎年呼ばれるのだが、名古屋では全く人気がない。そんなところからも、内容ではなくテレビを評価基準とする名古屋の学生の田舎臭さ気質が漂っているようだ。
 このように考えてくると現代の日本には、全国ネットのテレビ放映網やインターネットがあるなど情報格差は少ないが、情報を認識してゆく格差というものが存在するのではないだろうか。

制作:2006年
コメント
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