「私的な時代」ということについて書いておこう。ここでは私的という言葉を明確に定義づけようとは思わないのだが、パーソナルコンピュータがもたらす社会概念かなと思われる。
ヴァーチャルアイランドのように、パーソナルコンピュータがあれば、ヴァーチャル環境に撮影隊を派遣し、擬似的なプロモーション風写真が簡単に撮影できることは、これまでに散々書いてきた。そうした作業自体を個人で扱えるというところが、パーソナルコンピュータたる所以である。
ひろくWEBのブログなどをみても、私的生活日記が数多く、もちろん読んでいて、そこそこには面白いサイトもある。そうした行為自体も私的社会化のあらわれだろうと思う。
このように考えてくると、私達の生活自体が、私的になってきて、そしてサイトで大量に情報発信されている。それはそれでよいのだが、どこかこうした社会の退屈さを感じている日々である。その最たるところが、私の大学であり、今日などは修士論文の発表会だったから、終わるとしたたかな院生がいて、しっかりお膳立てされていて、コンパで反省会という口実で宴会となるのが私の世代の風習だが、今の学生達はそんなことはせず、さっさと静かな大学に戻った。
そんなわけで、私の仕事は軽くなったが、しかし私的という大変つまらない時代になったと思う。もう少し言い方を変えると、ヴァーチャルの対句としてリアルという言葉がある。このブログでは、リアルなデザイン実現を果たすために、ヴァーチャルという方法を便宜的にもちいているのにすぎない。私達が暮らし、そして仕事にしようとしている世界は、ヴァーチャルでなく、そして私的でもなく、多数の人間達が寄り添うリアルライフなのである。
さて大学の1年間の仕事も終わりつつあるので、追い出しコンパをけしかけよう。私から仕掛けるというのも、どこか本末転倒なのだが。
制作:2006年
ヴァーチャルアイランドのように、パーソナルコンピュータがあれば、ヴァーチャル環境に撮影隊を派遣し、擬似的なプロモーション風写真が簡単に撮影できることは、これまでに散々書いてきた。そうした作業自体を個人で扱えるというところが、パーソナルコンピュータたる所以である。
ひろくWEBのブログなどをみても、私的生活日記が数多く、もちろん読んでいて、そこそこには面白いサイトもある。そうした行為自体も私的社会化のあらわれだろうと思う。
このように考えてくると、私達の生活自体が、私的になってきて、そしてサイトで大量に情報発信されている。それはそれでよいのだが、どこかこうした社会の退屈さを感じている日々である。その最たるところが、私の大学であり、今日などは修士論文の発表会だったから、終わるとしたたかな院生がいて、しっかりお膳立てされていて、コンパで反省会という口実で宴会となるのが私の世代の風習だが、今の学生達はそんなことはせず、さっさと静かな大学に戻った。
そんなわけで、私の仕事は軽くなったが、しかし私的という大変つまらない時代になったと思う。もう少し言い方を変えると、ヴァーチャルの対句としてリアルという言葉がある。このブログでは、リアルなデザイン実現を果たすために、ヴァーチャルという方法を便宜的にもちいているのにすぎない。私達が暮らし、そして仕事にしようとしている世界は、ヴァーチャルでなく、そして私的でもなく、多数の人間達が寄り添うリアルライフなのである。
さて大学の1年間の仕事も終わりつつあるので、追い出しコンパをけしかけよう。私から仕掛けるというのも、どこか本末転倒なのだが。
制作:2006年