こんな風に数学を教えてくれたらどれほどよかったろうに、そう思っただけ。深津絵里は好演しているが、景色のよい道を笑顔で自転車をこぐ姿が、コムスンのヘルパーさんか、ニッセイレディみたいで気の毒。せめて、ヤクルトのおねえさんに設定を変えられなかったものか。家政婦業界よりはるかに観客動員数も見込めるだろうに。自己流の体操に励む「博士」が毎朝買い求める一本のジョアを通じて、徐々に親しくなり、やがて「ルート」とも知り合うとか。
とくに文句はないが、これならTVの2時間枠でじゅうぶん、映画にしなければならない必然性が乏しいと思う。映画にする必然性とは、コミットメントではないかと思う。誰かが誰かへ、約束、義務、責務、債務、関係性、目標といったものを力尽くに提示するものが映画だと俺は思ってきた。したがって、政治的なプロパガンダやむきつけに商業主義に奉仕する作品ほど、映画らしい、少なくとも映画的なスペクタクルを味わえるという皮肉な一面がある。もちろん、いろいろな映画があるわけだが、ただいま現在へコミットメントしようとする限り、映画産業が構築した世界規模のプロパガンダ性と商業主義に無縁ではいられないのだから、それぞれの作品が自立するためには別のプロパガンダ性と商業主義を獲得しなければならないはずだ。それも力尽くで。
『博士の愛した数式』や同じ監督の前作『雨上がる』、たぶん、未見だが木村拓哉主演の『武士の一分』を含む山田洋次の一連の藤沢周平ものには、映画自体が持つ必然的なコミットメント性が希薄な印象を受けた。つまり、俺たちの映画だという同時代性が少しも感ぜられない。一見、どの映画もプロパガンダとは無縁な庶民の真摯な生を描き、商業主義とは一線を画した良心的な映画とされているのに、だ。いや、そうした映画の作り手や観客は、幼稚な共同体性に浸り、傲慢な自画像を描いているだけだ、という手厳しい批判が出て、捻っていた首をようやく縦に振ることができた。サッカー日本代表監督オシムが、週刊文春の年末新年合併号で、「日本サッカー」にこと寄せてそう語っているのだ。オシムの卓見というより、たかがサッカーの雇われ外人監督でさえ、この程度の洞察力は備えているということか。降参。
本年もよろしく。
とくに文句はないが、これならTVの2時間枠でじゅうぶん、映画にしなければならない必然性が乏しいと思う。映画にする必然性とは、コミットメントではないかと思う。誰かが誰かへ、約束、義務、責務、債務、関係性、目標といったものを力尽くに提示するものが映画だと俺は思ってきた。したがって、政治的なプロパガンダやむきつけに商業主義に奉仕する作品ほど、映画らしい、少なくとも映画的なスペクタクルを味わえるという皮肉な一面がある。もちろん、いろいろな映画があるわけだが、ただいま現在へコミットメントしようとする限り、映画産業が構築した世界規模のプロパガンダ性と商業主義に無縁ではいられないのだから、それぞれの作品が自立するためには別のプロパガンダ性と商業主義を獲得しなければならないはずだ。それも力尽くで。
『博士の愛した数式』や同じ監督の前作『雨上がる』、たぶん、未見だが木村拓哉主演の『武士の一分』を含む山田洋次の一連の藤沢周平ものには、映画自体が持つ必然的なコミットメント性が希薄な印象を受けた。つまり、俺たちの映画だという同時代性が少しも感ぜられない。一見、どの映画もプロパガンダとは無縁な庶民の真摯な生を描き、商業主義とは一線を画した良心的な映画とされているのに、だ。いや、そうした映画の作り手や観客は、幼稚な共同体性に浸り、傲慢な自画像を描いているだけだ、という手厳しい批判が出て、捻っていた首をようやく縦に振ることができた。サッカー日本代表監督オシムが、週刊文春の年末新年合併号で、「日本サッカー」にこと寄せてそう語っているのだ。オシムの卓見というより、たかがサッカーの雇われ外人監督でさえ、この程度の洞察力は備えているということか。降参。
本年もよろしく。