コタツ評論

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ペコボコられる

2007-01-21 01:08:47 | ノンジャンル
俺が幼少の頃、不二家レストランがどれほど眩しく輝いていたか。替え上着にアスコットタイをした「パパ」と「ママ」が銀色に光るフォークとナイフを器用に操りながら、お子さまランチを前に目を丸くしている「ボク」に微笑みかける。そんな光景がまるで夢のように見えた貧乏くさい時代があったことなど、いまでは想像もつくまい。ハンバーグやパフェ、ホットケーキ、ショートケーキ・・・。嗚呼、いまではありふれたものばかりだが、めったに口にできないゴチソウだった。













遊び人で母を泣かせてばかりでめったに帰ってこなかったオヤジを憎みつつ、声をかけられればどうしても後に従ってしまうのは、パチンコ屋の2階の「ラタン」という喫茶店でチョコレートパフェを振るまってくれることがあるからだった。母を裏切るような後ろめたさや、家族を裏切っている男に阿る惨めさより、スプーン上にエロチックに混じる白黒だんだら模様と口中に拡がる甘い至福の誘惑が勝った。その一瞬、母の隈の出た眼窩を蔑んだ。

不二家のケーキが入った箱を土産に帰宅する父親など、我が家だけでなく周囲のどの家でも見かけなかったわけで、鉄工所の高山は日曜日の朝はいつも口の周りを黄色くして、卵かけご飯を食べたことが自慢そうに現れたものだ。だから、街中で不二家レストランの看板とぺこちゃん人形をみかけると、ここではないどこかを知った子ども心は否応なく掻き毟られた。ブランドが階級や階層のライフスタイル(生活様式)を象徴するものとすれば、かつて不二家はけっこうなブランドだったのだ。

不二家が子どもたちのブランドだった昭和30年代、国民間の格差はいまより小さかった。誰もが平たく貧乏だったから、子どもたちにも貧乏人意識は乏しかった。俺の育った大田区蒲田の社宅なら、6畳一間に親子4人が寝起きし、台所にはガスコンロがひとつ、共同くみ取り便所に銭湯通い、冷房は扇風機1台、暖房はガスストーブ1台といった暮らしでも、「ウチは中の下かなあ」と思っていたのである。しかし、小学校3年生のときに我が家に入ってきたTVと繁華街に出現した「瀟洒な」不二家レストランのおかげで、子どもたちの満たされぬ願望は刺激されて、欲求から欲望へ成長し、不二家レストランは繁盛した。俺も、「ウチは下の上の方かなあ」と渋々修正したのである。

ただし、俺が最初に憧れたのは、ショートケーキやチョコレートの流れたアイスクリームなどではなく、テーブルを囲む家族の笑顔だった。たまの散財を許す余裕のあるライフスタイルだったのだ。口中に心地よいクリームの滑らかさや甘さは、その場をともにする家族の笑顔があって、はじめて甘美な記憶になる。不二家レストランは今日のファミリーレストランとは異なる。そこでテーブルを囲む家族はニューファミリーではなかった。慎ましく暮らし、ささやかな散財に財布を開く、労働者一家だった。不二家の経営の低迷は、そうした変遷した家族のありようとズレが拡がっていった結果のように思える。
コメント
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