コタツ評論

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向きあう

2007-01-19 23:47:31 | ノンジャンル
向きあう、という慣用が気に入らぬ。こういう胡散臭い口語をニュース原稿などでみかけると、舌打ちしたくなる。最初は、教育関係者用語ではなかったかと思う。教員向けの指導書や教育学者の論文に頻発していた記憶がある。業界用語にとどまるなら、なかなか便利な言葉だろうから、別に文句はない。少なくとも、教育関係者には子供と「向きあう現実」があり、その向きあい方も幾通りもあるだろうから、言葉としては曖昧であっても、文脈から何らかの具体性を見つけることは難しくない。


ところが、最近はまるで決め台詞のようにあちこちで、一種の現実論として拡大適用されているようだ。その実、向きあわねばならぬという現実や論理、意志も曖昧なままに。まるで向き愛、である。向きあいと書きつけ、口にしたとたん、その無内容に気づいて恥ずかしくないものか。それとも向き合い=剥き合いを意識して、逆に赤裸々な関係性を避けんがため、あえて予防線を張っているのか。そんなうがった見方をしたくなるほど、変な言葉じゃないか。

詐話師はもっともらしい口語を巧みに駆使して、議論になるのをかわしながら、説得力ある説教話でっち上げるものだ。教育者の説諭やと宗教者の説法にも通じるスキルだろう。いずれも、現実や具体を超えたところに着地させる目的をもつ。しかし、ニュースや批評、ルポなど、現実と事実にそれこそ「向きあう」ことが前提となる営為において、「向きあうのが大切」と説教されて終わられてはたまらない。向きあったら、こうでした、というのが当たり前の展開だろう。

誰に、何に、どのように向きあうのか、あるいはどうして向きあうことを選んだのか、それらが一向に明らかにされないまま、無前提に向き合いを是とする。現在の一般的な慣用はそういうものだと思う。誰でもすぐ気づくのは、なんでも向きあえばいいわけじゃない、ということだ。事柄によるだけでなく、対手への配慮がまったく欠けている点がどうしようもない。なるほど、あなたは向きあいたくとも、対手が嫌がったらどうするのか。腕尽くで半身や後ろ姿を向き変えさせるのか。ケンカになるよ。それも向き合いのひとつだというなら、いったい何様のつもりだ、といわれるだろう。

たぶん、向きあいという言葉がもっとも説得力をもって語られるとすれば、こういう場面だ。「子どもじみた、青臭いことをいうな、人間はしょせん、金だよ」。「最高ですかああー」路線だ。あるいは金の代わりに、誰でも持つ欲求や傾向を当てはめても、一丁上がり。最近なら、北朝鮮の核にどう向きあうか、などの脅迫もあるだろう。そう、向きあう、とは一見、謙虚な姿勢にみえて、実は脅迫的な言葉なのだ。そんな香具師の口上を人品骨柄卑しからざる人々が使うべきじゃない。朝日新聞の「言葉のチカラ」に次いで、耳が腐りそうな言葉になりつつある、俺のなかでは。

俺は俺と向きあっているだけでていっぱいだし、誰かや何かと向きあうなんて、他人からどうのこうの口出しされる筋合いはないし、そんなに向きあいたいなら、まずお前が向きあえ。


コメント
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