コタツ評論

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みんしゅしゅぎはいらない

2012-03-15 23:27:00 | ノンジャンル
みんしゅしゅしゅぎはいらない、と「しゅ」をひとつ増やすと山下清化するのを発見(ただ吃もっているだけか)。

橋下を非民主的とか、ファシストとか批判するたびに、かえってその人気を高めている、と思う。たとえば、被災地の瓦礫受け入れ反対の市民の声というのが民主主義で、「そんな声は聞かない!」(石原慎太郎)というのが非民主的とすれば、たいていの人は非民主的に同感する。

瓦礫を受け入れて被災地の負担を減らすべきだという意見からではなく、強権的に進めてほしいからだ。俺たちに聞くな、そっちで決めろ、責任はとりたくない、そういうことだ。俺たちに聞いて、俺たちが決めて、俺たちが責任をとる、そんなのごめんだ。だから、「そんな声は聞かない!」がアピールする。

日本がファシズムだったことは一度もない。ファシズムとは、俺たちに聞け、俺たちが決める、俺たちの責任で、という民主主義を基盤としている。そんな時代は日本にあったためしがない。現在の橋下人気をみていると、それがよくわかる。現在から過去を推し量ることもできるのだ。

橋下に聞け、橋下が決める、橋下の責任で。その橋下は、自分を選んだ大阪府民、大阪市民の責任だと投げ返す。責任は宙に浮く。責任が宙に浮いているのなら、義務や権利も浮いていることになり、それらを力の源泉とする権威や権限も曖昧模糊となる。権力の実効性は乏しくなる。

どこの誰が舵取りしようと、「しっかり」「きちんと」できようがない。そもそも、「しっかり」「きちんと」を求めるのも、口にするのも、どうかしている。できなければ、それは政治家としての資質に問題があったからだ。首をすげ替えて、国民はまた、「しっかり」「きちんと」日本の舵取りをやってくれる人が出てくるのを待つ。

民主主義はもはやお呼びじゃない。といって、「気分はファシズム」というのではまったくない。「非民主的でいいじゃない(半疑問形)」。そういう感じ(半疑問形)。すると皮肉にも、「ハシズム」はぴったりの命名(半疑問形)。したがって、いまは、「ハシズム?(半疑問形)」の時代である。

ぼぼぼくはたたたびにでたいな。

現代の山下清は、大江健三郎だと思うな。山下清は、「兵隊の位(くらい)でいうと、大将だな」を口癖にしていたが、大江健三郎も、「民主主義の位でいうと、ファシズムだな」とか、「ポピュリズムだな」とかいえばいいのに。

(敬称略)