コタツ評論

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イソコファン

2019-03-08 22:03:00 | 政治
であるが、菅官房長官と司会する上村報道室長と記者クラブのベンチャラ記者たちの汚名は末代まで伝えられるべきだとしても、「事実と異なる自らの主張を繰り返す」という官邸の望月衣塑子記者への批判は事実無根とはいえないのが残念。


「たしかに菅官房長官の対応はひどいが、望月衣塑子記者もどうかと思う、あれじゃ官房長官もうんざりするよ」という「どっちもどっち」ではない。事実か事実ではないか。

<心証は事実ではないし、心証は事実とは成りえない>という「事実」に基づいて官邸は望月記者を批判しているわけで、どっちが取材記者かということになる。




と杉尾議員は望月衣塑子記者の「事実誤認」を取り上げているが、報道の現場における事実誤認とは、サッカーでいえば、オウンゴールやハンドリングのように、ゴール前のせめぎ合いのなかで起きるもの。上記の菅野完が批判している件は、選手が勝手に審判のホイッスルを吹くようなものか。

警察発表や裁判所の判決、公式資料や国会答弁などが「確定された事実」なのだが、もちろん、そうした「お墨付き」がなければ、放送でコメントできない、記事を書けないわけではない。周辺の事実を積み上げて、「真実に迫る」のがジャーナリズムにおける調査報道である。

しかし、いかに隠された事実に肉迫しようが、確証を得ていようが、書くときは「疑惑」で踏みとどまるのが記事であり、書きたいことの一割も書けないのが記者なのだ。踏みとどまらず己の信ずるままに、「これが事実だ、真実だ」と書くのは、事実誤認とは言えないし、また言ってはならない。

菅官房長官の数々の虚偽発言や戯言を「事実誤認」とは言わさないためにも。

(止め)


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