ネトウヨや菅官房長官の「旭日旗」擁護はデタラメ! 侵略戦争で「天皇の分身の旗」と崇めた負の歴史を直視せよ
http://lite-ra.com/2017/05/post-3142.html
これは、「売らんかな」記事です。
「売らんかな」とは「何が何でも売ってやろう」という意。「おう、なかなか元気やな。商売人はそのくらいでええんやないか」ではなく、「君ぃ、売り込み文句と正味がずいぶん違うんじゃないのかね」とふつうは悪い意味で使われます。
えーと、そこの関西の青少年、「売らん」は「知らん」や「要らん」などの口語ではありません。それでは真逆の意味になってしまいます。いや、「売らんかな?(売るんかな?)」とはまったく違います。
「売らん」の「らん」は「らむ」という古い言葉が元になっていて、「らむ」は百人一首の有名な歌にも使われています。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀 友則
「らむ(らん)」は「推量の助動詞」と辞書には載っています。「散るらむ」の場合は、桜の花が散っているという事実から、「しづ心なく(心落ちつかず)と桜の気持ちを推量しているわけです。
「こんなにのどかな春の陽ざしなのに、どうして桜は心落ちつかず散ってばかりいるのだろうか」とでも訳せます。
「売らん」の「らん」もこの「らむ」なので、「売ろうとしている」、あるいはもっと露骨に「売りつけようとしている」と言い換えられます。
これに、「かな」が付くとより強調する表現になります。「かな」も「哉」という昔の言葉で、俳句ではおなじみの「詠嘆・感動の意を表す。…だなあ。…なあ」という表現です。
流れゆく大根の葉の早さかな 高浜 虚子
主婦が夕ご飯のおかずにするために大根を小川で洗っています。タワシでゴシゴシ大根の土を落としているうちに、勢いあまって大根葉がちぎれ、あっと思うまもなく流れていってしまった。その早いことといったら!
もしかすると、主婦ではなく、虚子自身が大根を洗っていたのかもしれませんが、「早さかな」と驚嘆したときは、懐手をして大根洗いを眺めている俳人の視点になっているのです。
「売らん」と同じく「かな」も他者の視点であることが肝です。「売らんかな、です。自分のビジネススタイルは」という人はいなくて、どこまでも他人からの見立てなのです。
「こんな商品を売りつけようとするなんて、よくやるなあ」といったところでしょうか。商業主義そのものは否定しないけれど、取扱い商品がたいしたものではないし、その売り方がえげつないのではないかと推量しているわけです。
今回のたいしたことのない取扱い商品とは、「旭日旗」批難論であり、それを売りつけるために、えげつなく「旭日旗」擁護論が罵倒されています。
あまりに頭が悪すぎて驚愕である。
本当にヤバいとしか言いようがない。
まったくため息しか出ないが、
旭日旗をたんに「かっこいいデザイン」とみなして無害化する考え方は、道化にもほどがある。
それは戯言でしかない。
もはや反論にすらなっていないだろう
それも認識が浅薄すぎると言わざるをえない。
旗を天皇の分身と見なして人命より重く扱う価値観は、どう考えてもカルトである。
そこまでいうか、とばかりに罵倒を重ねてきて、最後の結びがこれです。
ネトウヨや安倍政権は論外だとしても、心あるサッカーファンたちが「健全な愛国心」を標榜するのならば、いまこそ、冷静な視座に立つことを求めたい。
この記事の罵倒に倣えば、「冷静な視座に立つ」とは、どの口が云うかと開いた口がふさがらない、とでもいいたくなります。
しかし、開いた口を閉じて、ちょっと考えてみると、いかにもとってつけたような一行です。そのちぐはぐ感に気づくと、上記の頻発する罵倒語もいかにもとってつけたようではありませんか。
この記事の構成は、考え得るかぎりの「旭日旗」擁護論に逐一反論を加えていくという真面目なものです。お手軽に誰かの反論を引用するのではなく、近代史文献や一次資料を渉猟した跡もあり、
「旭日旗」論争をめぐる一通りの事実関係を知るにはなかなか役に立つ労作記事といえます。
皮肉なことに、その網羅的な記述のおかげで、「旭日旗」擁護論にも有用にもなっているほどです。
陸軍の軍旗は、中央に日章(日の丸)を位置し、そこから放射状に16条の光線が先端になるにつれ太く伸びる意匠。法令で制定されたのは1874(明治7)年だ。
日本では、幕府時代から日章旗が軍艦旗としても使われたが、1889(明治22)年の海軍旗章条例によって16光線条の旭日旗が正式な軍艦旗として定められた。
ならば、幕末や明治初期から使われていた旭日旗を「日本軍国主義の象徴」とするのは、いかにも無理があるだろうと旭日旗の「歴史遺産論」を擁護できてしまいます。
つまり、罵倒できるほど強力な論証ではなく、むしろ論証の説得力の乏しさを罵倒でカバーしているとも読めます。
その上で、安倍政権の大黒柱である菅官房長官をターゲットに含めて罵倒するインパクトを狙ったとすれば、「とってつけた」のは編集ではないかという推量が嵩を上げてきます。
報道といい、ジャーナリズムといえど、あらゆる商業的な文章には編集者という会社側の手が入ります。記事のタイトルやリードという要約、小見出しなどは編集者が書くもので、筆者が手掛けるものではありません。たとえば、
ネトウヨや菅官房長官の「旭日旗」擁護はデタラメ! 侵略戦争で「天皇の分身の旗」と崇めた負の歴史を直視せよ
というタイトルは古くさいものの、簡にして要を得た、適切なものです。
編集者の業務のひとつである「原稿整理」として、受け取った原稿の誤字脱字や事実関係の間違いを訂正する「校正」だけでなく、読者に読みやすくわかりやすい文章に直すということもよく行われます。
その過程で、罵倒語を書き加えることによって、「負の歴史」論証より、「擁護はデタラメ」論旨を強く印象づけようとした編集者の力業なのかもしれません。ならば、とってつけたようなちぐはぐ感は頷けるものです。
もちろん、それほどの改変をする場合は、筆者と相談・確認の上であり、そのときの編集者の助言に従って、筆者自身が書き加える、書き直すこともよくあることです。
その場合、編集者は会社を代表して「売らんかな」という立場に立っていますから、会社組織からは一介の下請け業者に過ぎない筆者は、まず抗うことはできません。
あるいは、「リベラル啖呵売」というこの会社のビジネスモデルを忖度して、または、「リベラル売文業者」の一人として、「売らんかな」に積極的に乗ったという可能性もないとはいえません。
いずれにしろ、編集者も筆者もじゅうぶんな仕事をしながら、結局、「売らんかな」に奉仕しているに過ぎないわけで、旭日旗になど誰も関心はないのです。もちろん、私も。
旭日旗やがて哀しき売らんかな
誰ですか、「売れるものがあるうちはいい」と嘯いているのは。
http://lite-ra.com/2017/05/post-3142.html
これは、「売らんかな」記事です。
「売らんかな」とは「何が何でも売ってやろう」という意。「おう、なかなか元気やな。商売人はそのくらいでええんやないか」ではなく、「君ぃ、売り込み文句と正味がずいぶん違うんじゃないのかね」とふつうは悪い意味で使われます。
えーと、そこの関西の青少年、「売らん」は「知らん」や「要らん」などの口語ではありません。それでは真逆の意味になってしまいます。いや、「売らんかな?(売るんかな?)」とはまったく違います。
「売らん」の「らん」は「らむ」という古い言葉が元になっていて、「らむ」は百人一首の有名な歌にも使われています。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀 友則
「らむ(らん)」は「推量の助動詞」と辞書には載っています。「散るらむ」の場合は、桜の花が散っているという事実から、「しづ心なく(心落ちつかず)と桜の気持ちを推量しているわけです。
「こんなにのどかな春の陽ざしなのに、どうして桜は心落ちつかず散ってばかりいるのだろうか」とでも訳せます。
「売らん」の「らん」もこの「らむ」なので、「売ろうとしている」、あるいはもっと露骨に「売りつけようとしている」と言い換えられます。
これに、「かな」が付くとより強調する表現になります。「かな」も「哉」という昔の言葉で、俳句ではおなじみの「詠嘆・感動の意を表す。…だなあ。…なあ」という表現です。
流れゆく大根の葉の早さかな 高浜 虚子
主婦が夕ご飯のおかずにするために大根を小川で洗っています。タワシでゴシゴシ大根の土を落としているうちに、勢いあまって大根葉がちぎれ、あっと思うまもなく流れていってしまった。その早いことといったら!
もしかすると、主婦ではなく、虚子自身が大根を洗っていたのかもしれませんが、「早さかな」と驚嘆したときは、懐手をして大根洗いを眺めている俳人の視点になっているのです。
「売らん」と同じく「かな」も他者の視点であることが肝です。「売らんかな、です。自分のビジネススタイルは」という人はいなくて、どこまでも他人からの見立てなのです。
「こんな商品を売りつけようとするなんて、よくやるなあ」といったところでしょうか。商業主義そのものは否定しないけれど、取扱い商品がたいしたものではないし、その売り方がえげつないのではないかと推量しているわけです。
今回のたいしたことのない取扱い商品とは、「旭日旗」批難論であり、それを売りつけるために、えげつなく「旭日旗」擁護論が罵倒されています。
あまりに頭が悪すぎて驚愕である。
本当にヤバいとしか言いようがない。
まったくため息しか出ないが、
旭日旗をたんに「かっこいいデザイン」とみなして無害化する考え方は、道化にもほどがある。
それは戯言でしかない。
もはや反論にすらなっていないだろう
それも認識が浅薄すぎると言わざるをえない。
旗を天皇の分身と見なして人命より重く扱う価値観は、どう考えてもカルトである。
そこまでいうか、とばかりに罵倒を重ねてきて、最後の結びがこれです。
ネトウヨや安倍政権は論外だとしても、心あるサッカーファンたちが「健全な愛国心」を標榜するのならば、いまこそ、冷静な視座に立つことを求めたい。
この記事の罵倒に倣えば、「冷静な視座に立つ」とは、どの口が云うかと開いた口がふさがらない、とでもいいたくなります。
しかし、開いた口を閉じて、ちょっと考えてみると、いかにもとってつけたような一行です。そのちぐはぐ感に気づくと、上記の頻発する罵倒語もいかにもとってつけたようではありませんか。
この記事の構成は、考え得るかぎりの「旭日旗」擁護論に逐一反論を加えていくという真面目なものです。お手軽に誰かの反論を引用するのではなく、近代史文献や一次資料を渉猟した跡もあり、
「旭日旗」論争をめぐる一通りの事実関係を知るにはなかなか役に立つ労作記事といえます。
皮肉なことに、その網羅的な記述のおかげで、「旭日旗」擁護論にも有用にもなっているほどです。
陸軍の軍旗は、中央に日章(日の丸)を位置し、そこから放射状に16条の光線が先端になるにつれ太く伸びる意匠。法令で制定されたのは1874(明治7)年だ。
日本では、幕府時代から日章旗が軍艦旗としても使われたが、1889(明治22)年の海軍旗章条例によって16光線条の旭日旗が正式な軍艦旗として定められた。
ならば、幕末や明治初期から使われていた旭日旗を「日本軍国主義の象徴」とするのは、いかにも無理があるだろうと旭日旗の「歴史遺産論」を擁護できてしまいます。
つまり、罵倒できるほど強力な論証ではなく、むしろ論証の説得力の乏しさを罵倒でカバーしているとも読めます。
その上で、安倍政権の大黒柱である菅官房長官をターゲットに含めて罵倒するインパクトを狙ったとすれば、「とってつけた」のは編集ではないかという推量が嵩を上げてきます。
報道といい、ジャーナリズムといえど、あらゆる商業的な文章には編集者という会社側の手が入ります。記事のタイトルやリードという要約、小見出しなどは編集者が書くもので、筆者が手掛けるものではありません。たとえば、
ネトウヨや菅官房長官の「旭日旗」擁護はデタラメ! 侵略戦争で「天皇の分身の旗」と崇めた負の歴史を直視せよ
というタイトルは古くさいものの、簡にして要を得た、適切なものです。
編集者の業務のひとつである「原稿整理」として、受け取った原稿の誤字脱字や事実関係の間違いを訂正する「校正」だけでなく、読者に読みやすくわかりやすい文章に直すということもよく行われます。
その過程で、罵倒語を書き加えることによって、「負の歴史」論証より、「擁護はデタラメ」論旨を強く印象づけようとした編集者の力業なのかもしれません。ならば、とってつけたようなちぐはぐ感は頷けるものです。
もちろん、それほどの改変をする場合は、筆者と相談・確認の上であり、そのときの編集者の助言に従って、筆者自身が書き加える、書き直すこともよくあることです。
その場合、編集者は会社を代表して「売らんかな」という立場に立っていますから、会社組織からは一介の下請け業者に過ぎない筆者は、まず抗うことはできません。
あるいは、「リベラル啖呵売」というこの会社のビジネスモデルを忖度して、または、「リベラル売文業者」の一人として、「売らんかな」に積極的に乗ったという可能性もないとはいえません。
いずれにしろ、編集者も筆者もじゅうぶんな仕事をしながら、結局、「売らんかな」に奉仕しているに過ぎないわけで、旭日旗になど誰も関心はないのです。もちろん、私も。
旭日旗やがて哀しき売らんかな
誰ですか、「売れるものがあるうちはいい」と嘯いているのは。
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