カンヌ映画祭にて。右から古舘寛治、深田晃司監督、筒井真理子、浅野忠信。
新作ビデオレンタルで、「淵に立つ」を観た。
家族の深淵を見下ろす映画なので、家族で観る映画ではない。監督も夫婦やカップルで観てほしいと思っているのではないか。
傑作と評価は高いが、秀作であることは間違いないだろう。夫婦を演じた筒井真理子と古舘寛治の瞠目すべき演技、浅野忠信の得体のしれない怖さ、それだけでも世界水準に達しているように思う。
なんだか、歯切れが悪くないか? とお思いかもしれない。それは認めます。
よい映画を観終わった満足感に浸り、その余韻のままに、検索して公式サイトを読み出し、カンヌ映画祭をはじめとする内外の絶賛コメントやレビューに目を通して、うんうんと頷いていたのだ。深田晃司監督のインタビュウを読むまでは。
日本の俳優はもちろん、監督インタビューもたいていありきたりの無芸小食が多いので期待していなかったが、これには右眉が上がった。
Q:また、ヨーロッパでは家族よりも夫婦やカップルを題材にした映画が多いのに比べて、日本は家族の映画が多いのはなぜですか?
A:残念ながら日本には伝統的父権的な家族制度が色濃く残っていて、与党もそれを推進している現実があります。多くのカップルは子どもが生まれた時から、外で働く父、家庭を守る母の役割を演ずるようになる。日本に生きる人間を描こうとすると、家族との関係性がより強く浮き出てくるのはそのような社会背景が理由だと思う。
あくまでもこのとおりの発言をしたという前提での話だが、まず、「残念ながら」に引っかかった。「残念ながら」によって、あきらかに、「父権的な家族制度」を遅れて劣った家族制度と位置付けているが、そんな常識や定説があるとは知らなかった。家族制度に先進や後進があるのか?
そして、「色濃く残っていて」だ。どこに? 日本のどこに?「外で働く父、家庭を守る母」が根拠らしい。日本の専業主婦の割合が欧米に比べて、あるいは中国や韓国よりも高いのが、日本の「父権的な家族制度」を裏づけているのか?
女性の就業率の低さを「父権的な家族制度」以外の要因で説明することはいくらもできるが、いくつか反問するだけで事足りよう。
そこのお父さん、旦那さん、おじいさん、あなた、父権なんてものをかざしたことがこれまでの人生で一度でもありますか? そこの娘さん、奥さん、お母さん、おばさん、おばあさん、あなたの就職を父や夫や兄弟や親せきから、「女の癖に」と反対されたことがありますか?
「与党もそれを推進している現実があります」で語るに落ちたと思った。ひとつには、自分はリベラルであるというただのポジショントークであること。ふたつには、安倍政権が「反動的」な家族制度を改憲の論議や教育現場に持ち込もうとしているのは、まさしく「父権的な家族制度」が不在のためだという現実に目を閉ざしていること。
こういう認識なら、小津安二郎の「東京物語」は「父権的な家族制度」を描いた作品ということになるのか? あるいは、「父権的な家族制度」が新しい時代の到来によって瓦解していく哀惜と希望の物語とでも読むのか?
片言隻句をとらえてそうムキにならずともと思われるかもしれないが、映画の出来がよかっただけに、そのテーマであったはずの「日本の家族」に対する監督の浅薄な理解への落胆も大きいのである。
小林秀雄か誰かが、「芸談は聞くに値しない」という風なことをいっていたが、尊敬すべき芸の持ち主であるからといって、その芸を語る資格があるとはかぎらないわけだ。
そういう落胆から遡れば、ようするに、西欧式の「罪と罰」を導入してカンヌ映画祭受賞を狙った「逆オリエンタリズム」作品なのかと悪態をつきたいところだが、映画は監督だけのものではない。
現場に携わった俳優をはじめ、多くのスタッフの集合知からなる協働体によって生み出された作品であることは言うまでもない。気の利いたことが言えずくだらないことを言うくらいなら黙っとけよ、というのはプロデューサーの役目だが、「残念ながら」日本にはプロデューサーがいないおかげで、監督がお山の大将になりがちなのだ。
それはともかく、とても優れたよい映画です。お勧めします。
(敬称略)
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