愛を読む人
http://www.aiyomu.com/
「馬鹿者が!」と思わず、罵ってしまった。20年もの刑期を終えて出所しようかという、かつての恋人ハンナ(ケイト・ウインスレット)に向かって、マイケル(レイフ・ファインズ)は、「この間、過去について学ぶことはあったのか?」と尋ねるのだ。
ハンナは、問い返す。「私たちの過去のこと?」「いや、もっと前の過去のことだ」。ユダヤ人収容所の看守として、多数のユダヤ人収容者の死命を決めた、ハンナの過去をマイケルは責めているのだった。女がかつて二人の間に芽生えた愛について思い出し、微かな笑みを浮かべたのに、男は「人道に対する罪」を拭いきれず、苛立ったのである。
マイケル15歳、ハンナ35歳、20歳も離れた恋だった。いまや、マイケルは40歳を過ぎていながら、大学生だったときに知った女の「人道に対する罪」を赦せずにいるわけだ。ならば、男が何年にもわたり、文盲の女のために、ホメロスの『オデッセウス』やチェホフの『犬を連れた奥さん』、パステルナークの『ドクトルジバコ』など、たくさんの本を朗読して吹き込んだテープを送り続けたのはなぜなのか。
裁判を傍聴したとき、面会をしようとしたとき、2度も女を救えたはずなのに裏切った罪の意識を抱えたおかげで、誰にも心を開けない悲しい顔の男になったのではないか。しかも、朗読テープと本を照らし合わせ、女が独学で文字を読み書きすることを覚え、男に「手紙を頂戴」という手紙を出し続けたのに、一通の返事も書かなかったのはなぜなのか。
自分の思いや考えや行為がバラバラであることに、もちろん気づいてはいるが、屈折した自己愛から逃れられぬ、男の愚かしい苦脳を描いた映画でもある。回想する中年以降の苦渋に満ちたマイケルには、回想される少年時代の一途なマイケルほど、感情移入はできないが、その自己愛の裏返しである罪悪感には、納得させられる。マイケルも、罪悪感の牢獄にいるのである。
マイケルは、ハンナが遺したお茶の缶に詰められた7000マルクを届けに、ハンナの収容所の生き残りの女性に会う。そこで彼女(レナ・オリン)に、ハンナと自分の過去のいきさつを打ち明けようとするが、「カタルシスが欲しいなら、戯曲や小説を読みなさい」と拒絶される。なぜ、彼女はそれほどにマイケルに冷淡なのかといえば、当然なのだ。マイケルは、「少年の頃、(ハンナと)関係がありました」と切り出したのだ。「恋人でした」ではなく「関係がありました」。ついに男は、朗読者(原題)でしかない。
ケイト・ウインスレット名演! 「タイタニック」のイモねえちゃんが、こんなに立派になって、と涙ぐみたくなる。
少年時代のマイケルに、「僕なんて、本気の相手じゃないっていったの、本当?」と問われて、首をわずか横に振り、「僕を愛してる?」に、横に振りそうになって、縦に振り直す。そして、頷いたのがわかったか心配になって、マイケルを横目でチラッと見る切なさ。浴槽に漬かったまま身を屈め、斜めの顔を見せるハンナに対して、正面を見せて立つマイケル。二人の視線はけっして交錯しない、象徴的な場面だった。
少年時代のマイケルに扮したデヴィッド・クロスも将来が楽しみ。15歳の少年の美しい姿態と躍動感、ハイデルベルク大学生になってからは、青年の清しい色気を見せてくれた。顔立ちはまったくレイフ・ファインズに似ていないが、ちょっとした目つきが似るときがある。映画は、役者で観る、というのが通というもんでげす。
プロデューサーは、「イングリッシュ・ペイシェント」 (1996)、「リプリー」(1999)、「コールド マウンテン」(2003)を監督した故アンソニー・ミンゲラと、やはり故人になったシドニー・ポラック。この2人の映画だろう。役者の次ぎに映画で重要なのは、プロデューサーです。
ディア・ドクター
http://deardoctor.jp/
これも笑福亭鶴瓶、余貴美子、八千草薫の映画である。とくに笑福亭鶴瓶! この作品を観て、山田洋次は吉永小百合と共演の「おとうと」をつくったのだろう。ちょっと恥ずかしいね(最初は、市川昆の名作「おとうと」をリメイクするのかと、ちょっと期待したのだが)。
ほかにも芸達者はたくさん出ているが、いかんせん、小劇場出身の煩い「演技派」ばかり。この3人と、あとチョイ役の中村勘三郎、「芸能者」の血脈が画面を占めると、「それらしいリアリズム」から、「それらしくないけれどリアル」に次元が上がるのだ。
たとえば、私たち観客は、鶴瓶がお笑い芸人であり、本職の役者でないことを知っている。また、映画中の鶴瓶が、偽医者であることに途中から気づいている。偽医者である鶴瓶は、何人かの登場人物に、偽医者と気づかれていることを知っている。偽役者・鶴瓶が偽医者・伊野治を演じ、偽医者と見破られた偽医者を演じ続ける。
もしかすると、村人のほとんどが、薄々、偽医者と気づいていながら、本物の医者と信じた振りをしている。この「それらしくないけれどリアル」な虚構が成り立つには、脚本や演出を超えた、鶴瓶のうさんくささ、軽薄さが含意する、観客をも交えた「騙し合い」への合意が必要なのだ。そこでは、俳優の迫真の演技より、役者の振りや型が有効に思える。やはり、映画は役者で観る、といきたい。
(敬称略)
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「馬鹿者が!」と思わず、罵ってしまった。20年もの刑期を終えて出所しようかという、かつての恋人ハンナ(ケイト・ウインスレット)に向かって、マイケル(レイフ・ファインズ)は、「この間、過去について学ぶことはあったのか?」と尋ねるのだ。
ハンナは、問い返す。「私たちの過去のこと?」「いや、もっと前の過去のことだ」。ユダヤ人収容所の看守として、多数のユダヤ人収容者の死命を決めた、ハンナの過去をマイケルは責めているのだった。女がかつて二人の間に芽生えた愛について思い出し、微かな笑みを浮かべたのに、男は「人道に対する罪」を拭いきれず、苛立ったのである。
マイケル15歳、ハンナ35歳、20歳も離れた恋だった。いまや、マイケルは40歳を過ぎていながら、大学生だったときに知った女の「人道に対する罪」を赦せずにいるわけだ。ならば、男が何年にもわたり、文盲の女のために、ホメロスの『オデッセウス』やチェホフの『犬を連れた奥さん』、パステルナークの『ドクトルジバコ』など、たくさんの本を朗読して吹き込んだテープを送り続けたのはなぜなのか。
裁判を傍聴したとき、面会をしようとしたとき、2度も女を救えたはずなのに裏切った罪の意識を抱えたおかげで、誰にも心を開けない悲しい顔の男になったのではないか。しかも、朗読テープと本を照らし合わせ、女が独学で文字を読み書きすることを覚え、男に「手紙を頂戴」という手紙を出し続けたのに、一通の返事も書かなかったのはなぜなのか。
自分の思いや考えや行為がバラバラであることに、もちろん気づいてはいるが、屈折した自己愛から逃れられぬ、男の愚かしい苦脳を描いた映画でもある。回想する中年以降の苦渋に満ちたマイケルには、回想される少年時代の一途なマイケルほど、感情移入はできないが、その自己愛の裏返しである罪悪感には、納得させられる。マイケルも、罪悪感の牢獄にいるのである。
マイケルは、ハンナが遺したお茶の缶に詰められた7000マルクを届けに、ハンナの収容所の生き残りの女性に会う。そこで彼女(レナ・オリン)に、ハンナと自分の過去のいきさつを打ち明けようとするが、「カタルシスが欲しいなら、戯曲や小説を読みなさい」と拒絶される。なぜ、彼女はそれほどにマイケルに冷淡なのかといえば、当然なのだ。マイケルは、「少年の頃、(ハンナと)関係がありました」と切り出したのだ。「恋人でした」ではなく「関係がありました」。ついに男は、朗読者(原題)でしかない。
ケイト・ウインスレット名演! 「タイタニック」のイモねえちゃんが、こんなに立派になって、と涙ぐみたくなる。
少年時代のマイケルに、「僕なんて、本気の相手じゃないっていったの、本当?」と問われて、首をわずか横に振り、「僕を愛してる?」に、横に振りそうになって、縦に振り直す。そして、頷いたのがわかったか心配になって、マイケルを横目でチラッと見る切なさ。浴槽に漬かったまま身を屈め、斜めの顔を見せるハンナに対して、正面を見せて立つマイケル。二人の視線はけっして交錯しない、象徴的な場面だった。
少年時代のマイケルに扮したデヴィッド・クロスも将来が楽しみ。15歳の少年の美しい姿態と躍動感、ハイデルベルク大学生になってからは、青年の清しい色気を見せてくれた。顔立ちはまったくレイフ・ファインズに似ていないが、ちょっとした目つきが似るときがある。映画は、役者で観る、というのが通というもんでげす。
プロデューサーは、「イングリッシュ・ペイシェント」 (1996)、「リプリー」(1999)、「コールド マウンテン」(2003)を監督した故アンソニー・ミンゲラと、やはり故人になったシドニー・ポラック。この2人の映画だろう。役者の次ぎに映画で重要なのは、プロデューサーです。
ディア・ドクター
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これも笑福亭鶴瓶、余貴美子、八千草薫の映画である。とくに笑福亭鶴瓶! この作品を観て、山田洋次は吉永小百合と共演の「おとうと」をつくったのだろう。ちょっと恥ずかしいね(最初は、市川昆の名作「おとうと」をリメイクするのかと、ちょっと期待したのだが)。
ほかにも芸達者はたくさん出ているが、いかんせん、小劇場出身の煩い「演技派」ばかり。この3人と、あとチョイ役の中村勘三郎、「芸能者」の血脈が画面を占めると、「それらしいリアリズム」から、「それらしくないけれどリアル」に次元が上がるのだ。
たとえば、私たち観客は、鶴瓶がお笑い芸人であり、本職の役者でないことを知っている。また、映画中の鶴瓶が、偽医者であることに途中から気づいている。偽医者である鶴瓶は、何人かの登場人物に、偽医者と気づかれていることを知っている。偽役者・鶴瓶が偽医者・伊野治を演じ、偽医者と見破られた偽医者を演じ続ける。
もしかすると、村人のほとんどが、薄々、偽医者と気づいていながら、本物の医者と信じた振りをしている。この「それらしくないけれどリアル」な虚構が成り立つには、脚本や演出を超えた、鶴瓶のうさんくささ、軽薄さが含意する、観客をも交えた「騙し合い」への合意が必要なのだ。そこでは、俳優の迫真の演技より、役者の振りや型が有効に思える。やはり、映画は役者で観る、といきたい。
(敬称略)
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