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「ラストサムライ」や「サユリ」と同様に、珍妙な「日本映画」だった。少し思索的な「戦場にかける橋」を狙ったとしたら、明らかな失敗作だった。原作も監督も、出演俳優も、ローレンス役のトム・コンティを除いて、「戦場のメリークリスマス」というヒューマニズムなタイトルには沿わない個性だった。セリアズ大尉役のデヴィッド・ボウイが、「ナギサ・オーシマから、映画監督のカリスマとは何かを学ぶことができた」とコメントしたのは、半分は皮肉だろう。撮影中の「オーシマ」はよほど苛立ち、怒鳴っていたのだろう。
ただし、坂本竜一の音楽とビート・たけしのラスト場面だけはよかった。それまでの大島映画のよさとは、フリージャズや現代音楽が導入する不協和音のような、不快さと紙一重に観客の神経を逆撫でする編集だったが、この「戦メリ」のラストの場面は、ローレンスと原軍曹の和解という心地よい和音が奏でられる場面だった。誰が観ても、ほとんど致命的に失敗した演出でありながら、なぜか成功した名場面として記憶されている。
ぎこちなく別れのお辞儀を交わし、トム・コンティがドアに向かったとき、ビート・たけしが「ローレンス!」とドスを効かせた声で呼び止める。原軍曹の突然の怒鳴り声に、捕虜収容所の恐怖と痛みがローレンスに一瞬舞い戻り、身体や表情が硬直しなくてはならなかった。だが、ここでトム・コンティはのんびり振り返ってしまう。大島映画の取り柄である観客を不安に陥れる緊迫した瞬間がなければ、そこから一転、「メリー・クリスマス、ミスタ、ローレンス」という原軍曹の呼びかけと笑顔が、まるで対比にならない。
大島渚はもとより、「戦場にかける橋」路線の和解の場面には気が乗らなかった。とはいえ、劇的な対立と緊張というセオリーはじゅうぶんに承知していたはず。にもかかわらず、のんびり振り返るローレンスを許した。名場面どころか、大島渚がなかば投げた場面だと思えた。それを救ったのが、ビート・たけしの、暗愚にも無垢にもみえる笑顔だった。大島にとって、ビート・たけしのアルカイックスマイルは、「戦メリ」と「戦場にかける橋」の間のひとつの落としどころだっただろう。
佐藤慶や戸浦六宏や渡辺文雄や小松方正らがいないとき、大島映画はひどくリアリティを欠き凡庸になるが、「戦場のメリークリスマス」ではビート・たけしに救われ、かろうじて大島映画に引き戻すことができたわけだ。佐藤慶や戸浦六宏や渡辺文雄や小松方正は、心は通い合わないということをテーマとする大島映画において、心を通い合わせることができないアンチ・ヒューマニズムな人物を演じて、いずれも秀逸だった。一方、ビート・たけしは、ヨノイやセリアズのような近代の精神(心)を持たない人物を体現したといえる。
ビート・たけしのスマイルと坂本竜一のテーマ音楽がかぶる、このラストは米映画界でも名場面として通用しているようで、「戦場のメリークリスマス」が公開された1983年の翌年、1984年に製作されたセルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でも、このラストがそのままパクられている。「荒野の用心棒」で出世したセルジオ・レオーネだから不思議はないが、中国人の阿片窟で吸引したヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)の満面の笑みのストップモーションがスクリーンいっぱいに広がって終わるのだった。
(敬称略)
「ラストサムライ」や「サユリ」と同様に、珍妙な「日本映画」だった。少し思索的な「戦場にかける橋」を狙ったとしたら、明らかな失敗作だった。原作も監督も、出演俳優も、ローレンス役のトム・コンティを除いて、「戦場のメリークリスマス」というヒューマニズムなタイトルには沿わない個性だった。セリアズ大尉役のデヴィッド・ボウイが、「ナギサ・オーシマから、映画監督のカリスマとは何かを学ぶことができた」とコメントしたのは、半分は皮肉だろう。撮影中の「オーシマ」はよほど苛立ち、怒鳴っていたのだろう。
ただし、坂本竜一の音楽とビート・たけしのラスト場面だけはよかった。それまでの大島映画のよさとは、フリージャズや現代音楽が導入する不協和音のような、不快さと紙一重に観客の神経を逆撫でする編集だったが、この「戦メリ」のラストの場面は、ローレンスと原軍曹の和解という心地よい和音が奏でられる場面だった。誰が観ても、ほとんど致命的に失敗した演出でありながら、なぜか成功した名場面として記憶されている。
ぎこちなく別れのお辞儀を交わし、トム・コンティがドアに向かったとき、ビート・たけしが「ローレンス!」とドスを効かせた声で呼び止める。原軍曹の突然の怒鳴り声に、捕虜収容所の恐怖と痛みがローレンスに一瞬舞い戻り、身体や表情が硬直しなくてはならなかった。だが、ここでトム・コンティはのんびり振り返ってしまう。大島映画の取り柄である観客を不安に陥れる緊迫した瞬間がなければ、そこから一転、「メリー・クリスマス、ミスタ、ローレンス」という原軍曹の呼びかけと笑顔が、まるで対比にならない。
大島渚はもとより、「戦場にかける橋」路線の和解の場面には気が乗らなかった。とはいえ、劇的な対立と緊張というセオリーはじゅうぶんに承知していたはず。にもかかわらず、のんびり振り返るローレンスを許した。名場面どころか、大島渚がなかば投げた場面だと思えた。それを救ったのが、ビート・たけしの、暗愚にも無垢にもみえる笑顔だった。大島にとって、ビート・たけしのアルカイックスマイルは、「戦メリ」と「戦場にかける橋」の間のひとつの落としどころだっただろう。
佐藤慶や戸浦六宏や渡辺文雄や小松方正らがいないとき、大島映画はひどくリアリティを欠き凡庸になるが、「戦場のメリークリスマス」ではビート・たけしに救われ、かろうじて大島映画に引き戻すことができたわけだ。佐藤慶や戸浦六宏や渡辺文雄や小松方正は、心は通い合わないということをテーマとする大島映画において、心を通い合わせることができないアンチ・ヒューマニズムな人物を演じて、いずれも秀逸だった。一方、ビート・たけしは、ヨノイやセリアズのような近代の精神(心)を持たない人物を体現したといえる。
ビート・たけしのスマイルと坂本竜一のテーマ音楽がかぶる、このラストは米映画界でも名場面として通用しているようで、「戦場のメリークリスマス」が公開された1983年の翌年、1984年に製作されたセルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でも、このラストがそのままパクられている。「荒野の用心棒」で出世したセルジオ・レオーネだから不思議はないが、中国人の阿片窟で吸引したヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)の満面の笑みのストップモーションがスクリーンいっぱいに広がって終わるのだった。
(敬称略)
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