コタツ評論

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ゴールデン・レトリーバーか!

2021-05-07 00:16:00 | 政治
「ぼったくり男爵」異名を持つIOCのトーマス・バッハ会長は、あの偉大な音楽家バッハの一族だそうです。アメリカ人と話していて、バッハをバックというのでなんて教養がないのだろうと呆れていたら、英語圏ではバッハではなくバックと発音しているそうです。ちょっと考えてみれば、当たり前なのですが、日本では当たり前でないですね。

バッハ Bach: ゴルトベルク変奏曲 Goldberg Variations BWV988/グレン・グールド Glenn Gould 1955/レコード/高音質




以前、大阪なおみさんが全米オープンに優勝したときも問題になりました。肌色の違う有名人に、「人種差別メール」を送る日本人が少なからずいるようです。

バスケ八村塁・阿蓮兄弟に「人種差別DM」 本人公開で「これは悲しい」「いつになったら無くなるんだ」
https://www.j-cast.com/2021/05/05410867.html?p=all

八村阿蓮氏がその事実を明かした目的は、「日本には人種差別がない」と思い込んでいる人々へ、「どうか考え直して」とアピールするためでしょう。

身近に黒人など肌の色の違う人々と接する機会が少なく、じっさいに差別を見聞することもほとんどないことから、「日本には人種差別がない」と思っている人は多そうです。

そして、たいていの人は「日本には(アメリカのような酷い)人種差別はない」と補っているものです。アメリカと日本との差異や程度を比較して、相対的に「ない」と判断しているのです。

いうまでもなく、日本にも黒人差別と同様、在日や同和、アイヌなどの人々を出自により差別した歴史を持ち、いまもその差別感情は根深く残っているといわれます。

そうした差別について、ある年代以上の人に尋ねれば、「日本には差別がない」と言い切る人はごく少ないでしょう。ただし、「差別がある」と積極的に言う人はもっと少ないはずです。

「ない」とも「ある」とも言明しない人々とは、「する」側であっても「される」側ではないので、差別するかしないかを選べるように、いつも問われてから答える受け身の姿勢でいられるのです。

アジア系女性、ハンマーで頭殴られる 歩行中に「マスク外せ」―NY市
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021050500204&g=int

その動画
https://twitter.com/i/status/1390177002188156928


そんな多数派の日本人も、少数派アジア人として、等しくアメリカで「人種差別」の対象となり、日常的な暴言や暴力に晒されています。

それでも、多くの日本人にとっては遠いアメリカで起きていること、じっさいには差別されないので他人事なのが正直なところでしょう。そして、安堵してこう思うのです。

(日本には人種差別がなくてよかった)と。

たしかに黒人とみたら即座に発砲したり袋叩きにする警官や、アジア人を行きずりに襲う人など日本では見かけませんし、ニュースになったこともありません。

そんな苛烈な差別に比べれば、メールやSNSに「差別的発言」を書き込んだりするくらいは、「たいしたことではない」と思う人々が多いのは無理もないことです。

ネット上の差別者たちが告訴や訴追されたとき、まずびっくりするように、その多くに罪悪感などなく、気軽な気持ちで面白半分にやっていたという供述が目立ちます。

ネットを介して言葉で揶揄する、貶める、脅すことは、じっさいに面と向かって暴言を吐いたり、怒鳴りつけたり、暴力を振るったりすることとは、別ものだと思っているのです。

あるいは、差別だとしても、程度としては軽く低いものと判定しているのでしょう。差別にも段階があるというわけです。

しかし、このNY市で起きた「アジア系女性、ハンマーで頭殴られる」記事についたあるコメントを読むと、「暴力」からまだ先の段階があることがうかがえると同時に、差別の段階(論)そのものがとんでもない勘違いかもしれないと思いました。

no nameID: d51195

少し主題とはズレるが、私はある時仲良くなった米人に酒の席でアジア女性を伴侶にする理由を尋ねてみた事があるのだが、この回答が非常に衝撃的であった。消されると思うけど書く。

「穏やかな大型犬種と共に生活する感覚に近い」と割と真面目に回答された。

米国は離婚率が高い。
そして再婚相手には前妻とは違う性格のパートナーを求めるが、人に依っては犬と共に暮らす生活を選択する人も少なからずいて、その感覚に似ていると言うのだ。

よくよく尋ねると、もう顔とかじゃなく精神的に寄り添ってくれる生き物枠としてアジア人女性を認識している様であった。

アジア人女性=献身的であるイメージはどこからきたのか、とにかく聞いた時あまりにも価値観が違いすぎて絶句したのだが、それでも犬はなかろうと問うも典型的米国女性の悪 口に話題が移ったので結局有耶無耶に。
 
その後私はこの話題を出さなくなったので、彼のこの考えが一般的なのかどうかは判らないが、自身の倫理観、価値観とは決定的にかけ離れた人達がいるという事を改めて認識できた機会であった。

つまり、住む世界が全く違う。
猛獣のいる場所では闘うより逃げた方がいいと思う。

もちろん、「事実とすれば」という留保をつけなければなりませんが、差別する側の奥深さを垣間見たようで肌が泡立つ思いがしました。

コメントに登場する白人は、自他ともに「差別しない人」でしょう。ある意味で、究極の「差別しない人」かもしれません。

差別に関して、メールやSNSへの投稿ぐらい「たいしたことはない」とタカをくくる日本人も、「決定的にかけ離れた人たち」という筆者に同感するかもしれません。「大型犬」なんてあり得ないと。

「だから日本に人種差別はないって」と早合点するまえに、日本の「差別しない人」は、いったいどんな人なのか、いま一度考え直してみる必要があるでしょう。

メールやSNSへの投稿ぐらい「たいしたことはない」とタカをくくる人たちも、言外に(怒鳴ったり、暴力を振るったり、殺したりするよりずっとマシ)と言っているに等しいわけで、地続きの差別であることはわかっているはずです。そのうえで、差別といっても差異や程度はあるはずと安堵しているのです。

言葉の暴力から身体へ加える暴力の強度がエスカレートするといった段階(論)です。すると、アジア女性との結婚を「大型犬と暮らすに似ている」というコメントの白人はどの段階にもいない、「差別しない人」になります。そこに暴力はないからです。

日本人とは異なり、アメリカの白人はかつての奴隷制度によって黒人差別が残ってきたことから、黒人という少数派に対する自分たち多数派の白人の問題であることをよく知っているはずです。したがって、差別にも差異や程度があるという個人の問題に逃げ込むことができません。

一方、日本の「たいしたことはない」という人は、差別心から差別行為まで、個人や周囲の問題にとどめ、日本人や日本国民の多数派、集団の問題とはとらえないようです。個人から集団へ次数を上げて考えることをしません。

コメントの白人は、アジア女性を伴侶にすることによって、自分の差別心を否定しつつ自分たちの差別を棚上げして、集団から個人へ次数を下げることで心の安寧を得ていると思えます。そう意識したかどうかはべつにして。

つまり、両者は似通った個人的な立場を選び、それぞれ安堵と安寧を得ているとします。おかげで多数派の差別を直視せずに済む代わりに、かえって自らの差別心を温存し肥大化させていることに、眼を閉ざしているように思えます。

「たししたことはない」や「穏やかな大型犬」という個人の異様さとは、そこから生じているのではないでしょうか。

「差別される人」にならないかぎり、「差別しない人」のことは「差別しない人」自身が考え続けるしかありません。どこかから、「いつまでもやってろ」という罵声が聴こえますが。

(止め)



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