コタツ評論

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ワルボロ

2007-01-04 19:03:06 | 新刊本
久しぶりに池袋のジュンク堂に入った。西原理恵子と並んでゲッツ板谷のコーナーができているほど、たくさんの本が刊行されているので驚いた。

で、ゲッツ板谷の自伝的不良小説『ワルボロ』(幻冬舎)を買ってしまう。1600円! R・ブロックのマット・スカダーシリーズの最新作を買おうと思っていたのに。ゲッツ板谷ファンなのかな、俺は。

時は、1980年代。荒涼たる基地と競輪の街立川の不良中学生たちのケンカ三昧の日々を通して、主人公・板谷コーイチくんの恋と友情、成長をリアルに描いた青春小説の傑作だ。同系では、中場利一『岸和田少年愚連隊』、さらに遡れば鈴木清順監督の名作『けんかえれじい』を思い出す。『岸和田少年愚連隊』は1960年代、『けんかえれじい』は戦前という時代の違いはあるが、不良少年たちの情動はほとんど同じ。子犬同士がもぶれ合いつつ歩くような少年たちの姿は変わらないのだ。


俺も蒲田育ちなので、不良になって楽しくやるか、勉強してここから脱け出るか、2つの選択しかないクソのような街の閉塞感はわかる。小学生にして、そう思うのだ。幸か不幸か、俺は神奈川県の田舎に転校したせいで、そのどちらの道も選択しないですんだが、もしあのまま蒲田で中学に進んでいたら、たぶん不良になっていただろうと思う。自分の居場所と仲間を見つけなければならないからだ。

親と家庭から離れたいという欲求は、思春期としては健全な情動であり、不良かガリ勉かはちょっとしたきっかけで分かれることは、この本でも指摘されている。ただし、立川や蒲田のような殺伐だった街では不良偏差値がきわめて高い。中学生のくせに、ケンカにドスや日本刀が出てくる場合もあるほど。したがって、不良になるにもガリ勉する以上の辛い毎日が約束されているのだ。弱ければボコられ、使い走りにされ、ときには金まで毟り取られるのだ。

コーイチをはじめとするヤッコ、キャーム、小佐野、ビデちゃん、カッチン、たった6人の錦組は、そんな「一軍」の不良たちに手酷く殴られ、蹴られ、脅かされながら、自分たちの無知と非力に歯がみしながら結束し力を蓄えて、ついに立川の頂点に立ち向かうまでになる。たぶん、同じ物語を優等生群像としても描くことができるだろう。とりあえずの居場所を確保するために友だちを見つけ、仲間とともに自分たちの場所を守っていく。それは原初的な欲求と行動であり、不良グループ・ガリ勉組・スポーツ部・趣味派・帰宅組を問わず、ほとんど等価なのだ。

唯一大事なのは、そこで友だちを見つけること。誰かを友だちと思い、誰かから友だちと思われることなのだろう。

来夏に、この「ワルボロ」は映画公開されるらしい。楽しみだ。
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博士の愛した数式

2007-01-03 09:33:15 | レンタルDVD映画
こんな風に数学を教えてくれたらどれほどよかったろうに、そう思っただけ。深津絵里は好演しているが、景色のよい道を笑顔で自転車をこぐ姿が、コムスンのヘルパーさんか、ニッセイレディみたいで気の毒。せめて、ヤクルトのおねえさんに設定を変えられなかったものか。家政婦業界よりはるかに観客動員数も見込めるだろうに。自己流の体操に励む「博士」が毎朝買い求める一本のジョアを通じて、徐々に親しくなり、やがて「ルート」とも知り合うとか。


とくに文句はないが、これならTVの2時間枠でじゅうぶん、映画にしなければならない必然性が乏しいと思う。映画にする必然性とは、コミットメントではないかと思う。誰かが誰かへ、約束、義務、責務、債務、関係性、目標といったものを力尽くに提示するものが映画だと俺は思ってきた。したがって、政治的なプロパガンダやむきつけに商業主義に奉仕する作品ほど、映画らしい、少なくとも映画的なスペクタクルを味わえるという皮肉な一面がある。もちろん、いろいろな映画があるわけだが、ただいま現在へコミットメントしようとする限り、映画産業が構築した世界規模のプロパガンダ性と商業主義に無縁ではいられないのだから、それぞれの作品が自立するためには別のプロパガンダ性と商業主義を獲得しなければならないはずだ。それも力尽くで。

『博士の愛した数式』や同じ監督の前作『雨上がる』、たぶん、未見だが木村拓哉主演の『武士の一分』を含む山田洋次の一連の藤沢周平ものには、映画自体が持つ必然的なコミットメント性が希薄な印象を受けた。つまり、俺たちの映画だという同時代性が少しも感ぜられない。一見、どの映画もプロパガンダとは無縁な庶民の真摯な生を描き、商業主義とは一線を画した良心的な映画とされているのに、だ。いや、そうした映画の作り手や観客は、幼稚な共同体性に浸り、傲慢な自画像を描いているだけだ、という手厳しい批判が出て、捻っていた首をようやく縦に振ることができた。サッカー日本代表監督オシムが、週刊文春の年末新年合併号で、「日本サッカー」にこと寄せてそう語っているのだ。オシムの卓見というより、たかがサッカーの雇われ外人監督でさえ、この程度の洞察力は備えているということか。降参。

本年もよろしく。
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