コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

歯ブラシで通りを磨かされるユダヤ人

2010-01-18 23:45:00 | ノンジャンル
の写真を探して、Googleを画像検索したのだが、見つからなかった。たしか、歯ブラシを持ったユダヤ人たちが石畳の通りを磨かされ、それを群集が見物している写真だった。web検索したら、歯ブラシとユダヤ人は関係が深いことがわかった。つまり、眼前のユダヤ人集団を嘲笑するという以上に、ユダヤ民族全体を貶める意図だったわけだ。以下の文章も見つけたので貼り付け。

わたしは常にマジョリティに対する不安と恐怖を抱いている。自分がマイノリティに属しているという自覚があるわけではないのだが、マジョリティがヒステリー状態に陥ったとき、自分は必ず攻撃されるという確信のようなものがあるからだ。その確信は、わたしが大前提的にマジョリティを嫌っていることに原因がある。

わたしがマジョリティを嫌悪するのは、真の多数派など存在しないのに、ある限定された地域での、あるいは限定された価値観の中でのマジョリティというだけで、危機に陥った多数派は少数派を攻撃することがあるからだ。そしてマイノリティといわれる人々も、その少数派の枠内で、細かなランク付けをして、少数派同士で内部の少数派を攻撃することもある。

忘れることのできない写真がある。それは大戦前のドイツでユダヤ人たちがひざまずいて通りを歯ブラシで磨いているという写真だ。その人物がある宗教に属しているというだけ、その人物の人格や法的地位と関係なく差別するというのはもっとも恥ずべき行為だが、わたしたちは立場が危うくなるとそれを恥だと感じなくなる。

わたしはどんなことがあっても、宗教や信条の違いによって、他人をひざまずかせて通りを磨かせたりしたくない。それはわたしがヒューマニストだからというより、そういったことが合理的ではないというコンセンサスを作っておかないと、いつわたしがひざまずいて通りを磨くことになるかわからないからだ。

わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなければならない。繰り返すがそれはヒューマニズムではない。わたしたち自身を救うための合理性なのである。『恋愛の格差』(村上龍 青春出版社)より。


村上春樹と村上龍は、小説は面白くないけれど(私には)、エッセイや紀行文は読ませる。

(敬称略)

昔の名前で出ています

2010-01-18 00:16:00 | ノンジャンル
国民の信任を受けた政権を選挙以外の手段で転覆させようとするのをクーデターといいます。で、たいていのクーデターは、CIAの陰謀です。枚挙に暇がない。昔は、「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、CIAの陰謀だ」といわれたものです(昔の郵便ポストは赤かったの、電信柱は丸太だったの、CIAの陰謀は常識だったの)。

小沢が悪党(悪党には二つの意味があるが)だから、民主党が政権奪取できたのであり、成熟した国民は安心して民主党に投票できたのです。学級委員会みたいな鳩山一党じゃ危なくてしょうがない。小沢政権の表紙が鳩山じゃなくて、その逆だと大人はわかっています。鳩山一党の暴走を抑えるのが小沢の役割。

「事業仕分け」スタートのときの騒動を思い起こせばわかる。当初、仙石と枝野幸男は、当選したばかりの1年生議員を大量動員した仕分けチームをつくろうとしたが、小沢が反対して1年生議員ははずされました。小沢が反対していなければどうなっていたか。すでにベテランといえる蓮舫議員ですら、「生意気」と反発を受けたのに、ポッと出の1年生議員などが出しゃばれば、アンチ民主の格好の餌食となっていたのは間違いない。

「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、CIAの陰謀だ」には、もちろん、なんでもかんでも、CIA、つまりはアメリカの所為にして安心したいという裏の気持ちがあり、さらには、とんちんかんなことばかりやっておるわいアメリカさんは、という軽侮も込められていた。小沢は悪党(二つの意味があるが)だからこそ、その濁流の血脈を含めて支持された。東条英機は、清廉潔白な人だったが、日本を亡国の淵まで連れていった。

アメリカは、相変わらず、日本人を12歳の子ども(@マッカーサー)扱いにして、中学生の正義を押しつけようとしている。地獄への道は、正義で舗装されている。そして、僕らは、1本の歯ブラシを持たされ、その道を磨かされる。ドブ鼠のように丸くなって。

(敬称略)

これは当り映画2本

2010-01-14 19:25:00 | レンタルDVD映画
愛を読む人
http://www.aiyomu.com/



「馬鹿者が!」と思わず、罵ってしまった。20年もの刑期を終えて出所しようかという、かつての恋人ハンナ(ケイト・ウインスレット)に向かって、マイケル(レイフ・ファインズ)は、「この間、過去について学ぶことはあったのか?」と尋ねるのだ。

ハンナは、問い返す。「私たちの過去のこと?」「いや、もっと前の過去のことだ」。ユダヤ人収容所の看守として、多数のユダヤ人収容者の死命を決めた、ハンナの過去をマイケルは責めているのだった。女がかつて二人の間に芽生えた愛について思い出し、微かな笑みを浮かべたのに、男は「人道に対する罪」を拭いきれず、苛立ったのである。

マイケル15歳、ハンナ35歳、20歳も離れた恋だった。いまや、マイケルは40歳を過ぎていながら、大学生だったときに知った女の「人道に対する罪」を赦せずにいるわけだ。ならば、男が何年にもわたり、文盲の女のために、ホメロスの『オデッセウス』やチェホフの『犬を連れた奥さん』、パステルナークの『ドクトルジバコ』など、たくさんの本を朗読して吹き込んだテープを送り続けたのはなぜなのか。

裁判を傍聴したとき、面会をしようとしたとき、2度も女を救えたはずなのに裏切った罪の意識を抱えたおかげで、誰にも心を開けない悲しい顔の男になったのではないか。しかも、朗読テープと本を照らし合わせ、女が独学で文字を読み書きすることを覚え、男に「手紙を頂戴」という手紙を出し続けたのに、一通の返事も書かなかったのはなぜなのか。

自分の思いや考えや行為がバラバラであることに、もちろん気づいてはいるが、屈折した自己愛から逃れられぬ、男の愚かしい苦脳を描いた映画でもある。回想する中年以降の苦渋に満ちたマイケルには、回想される少年時代の一途なマイケルほど、感情移入はできないが、その自己愛の裏返しである罪悪感には、納得させられる。マイケルも、罪悪感の牢獄にいるのである。

マイケルは、ハンナが遺したお茶の缶に詰められた7000マルクを届けに、ハンナの収容所の生き残りの女性に会う。そこで彼女(レナ・オリン)に、ハンナと自分の過去のいきさつを打ち明けようとするが、「カタルシスが欲しいなら、戯曲や小説を読みなさい」と拒絶される。なぜ、彼女はそれほどにマイケルに冷淡なのかといえば、当然なのだ。マイケルは、「少年の頃、(ハンナと)関係がありました」と切り出したのだ。「恋人でした」ではなく「関係がありました」。ついに男は、朗読者(原題)でしかない。

ケイト・ウインスレット名演! 「タイタニック」のイモねえちゃんが、こんなに立派になって、と涙ぐみたくなる。

少年時代のマイケルに、「僕なんて、本気の相手じゃないっていったの、本当?」と問われて、首をわずか横に振り、「僕を愛してる?」に、横に振りそうになって、縦に振り直す。そして、頷いたのがわかったか心配になって、マイケルを横目でチラッと見る切なさ。浴槽に漬かったまま身を屈め、斜めの顔を見せるハンナに対して、正面を見せて立つマイケル。二人の視線はけっして交錯しない、象徴的な場面だった。

少年時代のマイケルに扮したデヴィッド・クロスも将来が楽しみ。15歳の少年の美しい姿態と躍動感、ハイデルベルク大学生になってからは、青年の清しい色気を見せてくれた。顔立ちはまったくレイフ・ファインズに似ていないが、ちょっとした目つきが似るときがある。映画は、役者で観る、というのが通というもんでげす。

プロデューサーは、「イングリッシュ・ペイシェント」 (1996)、「リプリー」(1999)、「コールド マウンテン」(2003)を監督した故アンソニー・ミンゲラと、やはり故人になったシドニー・ポラック。この2人の映画だろう。役者の次ぎに映画で重要なのは、プロデューサーです。

ディア・ドクター
http://deardoctor.jp/



これも笑福亭鶴瓶、余貴美子、八千草薫の映画である。とくに笑福亭鶴瓶! この作品を観て、山田洋次は吉永小百合と共演の「おとうと」をつくったのだろう。ちょっと恥ずかしいね(最初は、市川昆の名作「おとうと」をリメイクするのかと、ちょっと期待したのだが)。

ほかにも芸達者はたくさん出ているが、いかんせん、小劇場出身の煩い「演技派」ばかり。この3人と、あとチョイ役の中村勘三郎、「芸能者」の血脈が画面を占めると、「それらしいリアリズム」から、「それらしくないけれどリアル」に次元が上がるのだ。

たとえば、私たち観客は、鶴瓶がお笑い芸人であり、本職の役者でないことを知っている。また、映画中の鶴瓶が、偽医者であることに途中から気づいている。偽医者である鶴瓶は、何人かの登場人物に、偽医者と気づかれていることを知っている。偽役者・鶴瓶が偽医者・伊野治を演じ、偽医者と見破られた偽医者を演じ続ける。

もしかすると、村人のほとんどが、薄々、偽医者と気づいていながら、本物の医者と信じた振りをしている。この「それらしくないけれどリアル」な虚構が成り立つには、脚本や演出を超えた、鶴瓶のうさんくささ、軽薄さが含意する、観客をも交えた「騙し合い」への合意が必要なのだ。そこでは、俳優の迫真の演技より、役者の振りや型が有効に思える。やはり、映画は役者で観る、といきたい。 

(敬称略)


知られざる真実

2010-01-12 00:23:00 | ノンジャンル


小沢一郎を清廉潔白な政治家だとは思っていないし、また清廉潔白な政治家が理想的とも思っていないが、最近の検察の小鳩攻撃の酷さと、その尻馬に乗ったマスメディアの叩き記事のあくどさは目に余ると思っていたところへ、ちょっと痛快事。以下によれば、この間、新聞各紙を賑わした、小沢一郎の政治資金管理団体「陸山会」への4億円は、収支報告書にちゃんと記載されていたという。ならば、「疑惑の4億円」は大誤報となる。

植草一秀の『知られざる真実』
http://uekusak.cocolog-nifty.com/

駐米大使が、クリントン国務長官から呼びつけられて、普天間問題で叱られたと記者団に語ったが、実はアメリカ側が呼びつけたのではなく、駐米大使が勝手に立ち寄っただけだったり(日刊ゲンダイ)、先の羽毛田宮内庁長官の件ばかりでなく、官僚側(検察も司法官僚)の凄まじい抵抗が伺える(こうした「疑惑」は検察側のリーク以外で記事になることはありえない)。やはり、「敵の評価はつねに正しい」のである。

官治からの脱却を是とするなら、民主党は本気で法治へ転換させようとしているのである。既得権益を侵犯される官僚側が、民主党政権に反発、抵抗、サボタージュするのは、ある意味で道理に適っているが、その尻馬に乗って、収支報告書に記載されているかどうかといった、ごく初歩的な裏もとらずに、疑惑と煽ったマスメディアにこそ、その闇は深いといわざるを得ない。

先に紹介した『流転の果て』で、著者の大塚将司は、ジャーナリズムの資格も能力もないのに、体制批判をすることは、「害悪」と断じているが、残念ながら妥当するようだ。それにしても、逮捕され、スキャンダルにまみれてからの植草さんは凄い。

(敬称略)

流転の果て

2010-01-08 01:25:00 | ブックオフ本
積ん読が10冊以上も重ねてあるというのに、亀戸のブックオフで、またも魅力的な本を見つけてしまい、いそいそ買い込んでしまった。



『流転の果て-ニッポン金融盛衰記'85~'98 <上下>』(大塚将司 社)金融財政事情研究会)

どこに惹かれたかといえば、「大塚将司」という著者名である。日本経済新聞社の社員なのに、社長の首を取ろうとした堂々たる内部告発者なのである。「堂々たる」というのは、日経の株主総会の場で、独自の取材に基づき、鶴田社長(当時)のスキャンダルを告発したのである。

<日経新聞が内部告発者・大塚将司氏を提訴>
http://slapp.jugem.jp/?eid=114

次ぎに、金融財政事情研究会という版元に注目した。通称、「きんざい」と呼ばれる。金融専門誌「週刊金融財政事情」を発行する、金融業界では知る人ぞ知る、有力出版社なのである。元日経記者の著作だからとありがたがるような版元ではないし、「大塚将司」という「スキャンダラス」な有名性に飛びつく版元でもないのである。

社団法人 金融財政事情研究会
http://www.kinzai.or.jp/

まだ、上巻の1/4ほどだが、読み出したら面白くて、座れない急行には乗らず、座って読める各駅停車に乗ってしまった。もちろん、金融財政の知識は皆無、証券も債券も金利も為替も、そこいらの中学生と変わらぬほど知らないが、面白く読める。「プラザ合意」の円高から内需拡大の「バブル経済」へ、そして「失われた10年」、一人の経済記者の眼に映った、この15年間の日本の金融界の有為転変を「そういうことだったのか」と思い出せるのである。

「為替は円高に推移」とか「日銀が利下げに」といった、断片的な経済記事を読んでも、その意味や影響について、私にはわかったためしがない。ところが、その記事を書いている記者も、わかって書いているわけではなさそうなのだ。日本経済新聞のベテラン記者だった著者も、いたるところで、「無知だった」と認め、「そうなるとは想像もしなかった」と語っている。

新聞記者の内実についても、よく知ることができる。スクープ記者として自信を持てるようになっても、「いまこうなっている」だけでなく、「これからこうなる」と提示できなければジャーナリストではないのではないかと、折々の葛藤を率直に語っている。誰よりも早く特ダネを書くスクープ記者をプロとすれば、つまりできることを最大限にするのがプロとすれば、できないことをなぜできないかと考え続けるのは、アマチュアということになる。現役時代、そんな葛藤はおくびにも出さなかった著者の仕事ぶりは、以下の書評に活写されている。

産経ニュース 書評
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/081019/bks0810190938009-n1.htm

日経の敏腕スクープ記者で、自社の社長スキャンダルの内部告発者、といえば、筋金入りのジャーナリスト、あるいは信念の正義派というイメージを抱くが、本人の語るところによれば、「でもしかジャーナリスト」として日経に入社し、「ジャーナリズムを標榜する会社の禄を食む以上、ジャーナリストじゃなくては、まずいんじゃないだろうか」と思い出すのはずっと後年、スクープ記者として名を馳せてから。また、新聞記者を辞めたことも、「敵前逃亡した」と総括している。つまり、ジャーナリストになれなかった(と思っている)ジャーナリストのジャーナリスト論でもある。

(敬称略)