コタツ評論

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負けは負け

2010-09-15 23:33:00 | ノンジャンル
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かねて本ブログでは、小沢擁護・小沢支持に立っていくつか投稿してきたわけだが、残念ながら、小沢は負けた。民意が、菅を支持したというより、小沢を忌避した。もちろん、党員・サポーター票の大差のことだ。小選挙区総取り制によるポイントによるもので、得票率は大差とまではいえないはずだが、各メディアはポイントのみを示して、「菅圧勝」と一報した。ならば、「小沢惨敗」について書くべきところだが、私が知る限りでは、詳報でも続報でも、そう書いたメディアはない。一方が「圧勝」すれば、他方は必ず「惨敗」のはずなのに、誰もそうとは書かず、いわない。そこに、今回の民主党代表選のほんとうの勝者が見えた気がする。

今後の勢力地図、政局運営からいえば、菅VS小沢の勝敗とは、国会議員票の奪い合いの結果にほかならず、党員・サポーター票の影響は少ない。国会議員票は僅差といえるから、「菅圧勝」や「小沢惨敗」のいずれでもない。とはいえ、選挙に強いはずの小沢が、国会議員票でも負けたのは意外だが、民主党がかつての自民党のような派閥政治ではないことからだろう。民主党が前原派や岡田派など大小の派閥政治なら、小沢はもっと議員票を集めていたはず。民主党で派閥といえるのは、小沢派だけであり、あとは反小沢派や非小沢派という離合集散だけ。脱派閥政治という面からは、民主党がよくいわれる第2自民党という指摘は当たっていない。ただし、民主党が第2自民党になるのは、これからかもしれない。「政調」を復活させ、「族議員」を育て、民主党が派閥政治に向かう可能性は大きい。

各メディアが「小沢惨敗」とは書かなかった背景の一つは、国会議員票が接していたからなのだが、とすれば、党員・サポーター票の大差が、「菅圧勝」と報道する根拠となる。得票率を勘案すれば、「菅圧勝」とまではいえないものの、小選挙区総取り制のポイントでは、「菅圧勝」は事実。党員・サポーター票という民意においては、「小沢惨敗」を印象づけるものだ。選挙と金のしがらみが大きく影響する議員票の行方より、それは党内民主主義が健全に機能した結果だといえなくはない。そこまで書いた選挙評は、私が知る限り見当たらなかった。各メディアは、代表選の当初から、少なからぬ世論調査を実施し、菅が小沢を圧倒的に引き離して支持が高いと報じてきたにもかかわらず、「菅圧勝」とは書いても、「小沢惨敗」の民意が下されたとは書かなかった。

なぜだろうか? 「民意」をリードしてきたのが、ほかならぬメディアだからである。公職選挙法とは無関係な代表選であることから、各メディアは偏向を隠さず、例によって一方的な「アンチ小沢報道」を垂れ流してきた。このことに対する異論は少ないだろう。議員票では、鳩山グループを加えた小沢派が優勢とされていたから、最後まで読めなかったのは、党員・サポーター票だった。そして、今回、未確認情報だが、企業団体などの組織票の多くが棄権にまわったといわれている。党員・サポーター票の構成が、国民一般に近かったとすれば、メディアの影響力はさらに大きかったはずだ。ただし、選挙戦後半にさしかかってからは、小沢人気が急伸したことをメディアも渋々報じていた。ネット関連の調査では、当初から、小沢>菅であったから、少なくとも、圧倒的な菅>小沢とまではいえないことは明白だった。

つまり、各メディアは、「民意」を把握していなかったが、「民意」を代弁した。「民意」は、圧倒的に小沢より菅支持と書いた。接戦であることを知りながら、そう書いた。接戦だったことが明らかになっても、そう書いた。菅支持と書きながら、小沢不支持とは書かなかった。菅圧勝としながら小沢惨敗とは書かなかった。そろそろ結論を急ごう。小沢は完敗した。菅は辛勝した。完敗と辛勝の間を埋める勝ち点は、マスコミのものである。マスコミが「民意」を代弁して、「勝った」といえる。したがって、民意は惨敗した。誰よりも負けた。民意を裏切りミスリードしたマスコミ自身は、はたして勝ったといえるだろうか。いま彼らに勝利の笑顔はあるだろうか。ほんとうに、「圧勝」したのは誰だろうか?

(敬称略)





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2010-09-15 21:21:00 | 詩文

私は私の詩から
お金の匂いがしたらいい

ぱりっとした小切手ではなく、手垢のついた披くちゃ紙幣
掃除のおじさんの汗にまみれたアロハシャツのポケットから透けて見える
ごまの葉みたいな一万ウォン札一枚の紙幣の青さ
私は詩の中に大切にしまっておきたい
退勤する道のずきずきするような煤煙、脂っこい疲れ
真夜中1時、病院の火影(ほかげ)が漏れる時
連立住宅の半地下で
スタンドを点けて溜め息をつくように
昇天することも、地に消えることもできず
だからそれだけ、もっと危なげに踏ん張って立って

神様、仏様
腐りもしない高尚な名前ではなく
挨の出る本のページではなく
疲れた体から体へと生まれ変わり
痛む口から口へと深まる詩
スタンドを点けて溜め息をつくように
お寺のトイレで壁に瞑想した虚しさではなく
地下鉄の広告ポスターの文章にぴったり合う
深い孤独ではなく
人の住む下町、入り組んだ裏道ごとに
ごた混ぜの理由を抱き寄せ、こね回し、煎じた詩
評論家一人、虜にできなくても
年老いた酌婦の目頭を、温かく濡らす詩
転がり転がり、偶然あなたの足の先にぶつかれば
ちゃりん!と時々音をたてて泣くことのできる

私は私の詩が
コインのように擦り減りつつ、長持ちしたらいい

(崔泳美 チェ・ヨンミ)
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政治的に正しくない2作

2010-09-15 01:21:00 | レンタルDVD映画


シャッターアイランド

デカプリオ×スコセッシの新作。コントラストの効いたカメラは凄いが、いかに過去の設定とはいえ、精神病院の描写が、「キチガイ部落」(政治的に正しくないどころか、まったくの差別表現だが)の「ロボトミー手術」には、鼻白む。謎解きミステリの娯楽作品なのだから、類型的なのはお約束じゃないかと、逆に当方に鼻白む向きもあろうが、今日、少なからぬ寝たきりや痴呆老人が、特養のベッド数が足らないために、精神病院に入院させられている日本の現状もあるわけで、精神病院への予断と偏見を助長するような「娯楽映画」を観せられれば、鼻も赤くなろうというもの。また、アメリカ映画ファンなら、「カッコーの巣の上で」によって、非人間的な「ロボトミー手術」について知っているはず。「死刑」を受け入れるがごとく、「ロボトミー手術」に向かって歩いてゆく後ろ姿でよいのか。

スコセッシもまた、ミロシュ・フォアマン監督と同様に、アメリカンニューシネマの旗手の一人として台頭したはず。ヒチコックへのオマージュや先祖帰りといえば聞こえはよいが、ヒチコックはこうした脳内妄想そのものをモチーフとはしなかった。妄想と現実を峻別して観せた。探偵以外にニュートラルな登場人物を配さず、犯人との関係性の有無や濃淡を伏線の背景とした。だから、思わせぶりなショットが効いた。それはヒチコックのルールだった。ヒチコックが学び、題材を得た推理小説のルールだったからだ。観客に探偵と同じく手がかりやヒントを与えるルール。そのルールを文法として駆動させて物語る。その手段であるべき撮影術(カメラワークやカメラアングル)を美学として引用するなら、オマージュどころかただのパクリではないか。

もちろん、ヒチコックの映画文法を無視した新機軸はあってよい。それならば、この手の謎解きミステリの娯楽映画としては、「アイデンティティ」のほうが、ずっと上出来だったと思う。だいたい、なんにでも出演するベン・キングスレイはともかく、あの名優マックス・フォン・シドーに何の見せ場もないとは。スコセッシ、アカデミー賞もらって、トチ狂ってやしないか。



ハート・ロッカー

かつて、日米戦争のとき、アメリカ側は日本の戦意昂揚の映画や新聞記事、小説、軍歌などを収集分析して驚いたそうだ。アメリカの基準でいえば、戦場の残酷、従軍の辛さ、兵隊の苦しみを率直に扱っていて、戦意昂揚どころか反戦や非戦の意図があるとしか思えなかったからだ。この映画は、戦意昂揚映画として、かつての日本のレベルには達している。イラクとおぼしきテロが横行する国で、爆弾処理に従事する兵士の恐怖の毎日を追いながら、誰にとっても危険でしかない爆弾の除去という「責務」に焦点を絞ったのが功を奏して、「娯楽作品」としても楽しめる。なぜ、イラクにアメリカ軍がいるのかという疑問を抱かず、アメリカ軍の戦死者より、イラク国民の犠牲者の数が圧倒的に多数だという知識さえなければだが。


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禅雲寺にて

2010-09-15 01:16:00 | 詩文
花が
咲くのは骨が折れても
散るのは束の間だわ
ー様に見つめる暇も無く
愛しい人を思う間も無く
本当に束の間だわ

あなたが初めて
私の中に咲き始めたときのように
忘れるのもまたそれくらい

一瞬ならいいわ
遥かに笑うあなた
山を越え行くあなた

花が
散るのは易しくても
忘れるのは一仕事だわ
本当に、一仕事だわ

(崔泳美 チェ・ヨンミ)
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一服しよ

2010-09-12 00:36:00 | 一服所
10月1日からタバコが値上がるそうで、コンビニではカートン売りの予約がはじまっているが、これを機会に止めようという気にはなれない。タバコとコーヒーは、長年親しんだ友だちである。高くても安くても、金に左右される間柄じゃない。とはいえ、「悪魔のように黒く地獄のように熱い」友だちには、低価格のコーヒーショップチェーンが喫茶店を駆逐してから、街ではめったに会えなくなった。

「昔はよかった」などとはいわない。現在の水準からすれば、かつてのコーヒーの大半は、ひどく不味いものだった。死んだ伊丹十三のエッセイに、焙煎の具合から、コーヒー豆の挽き方、慎重に湯を注ぐドリップまで、ほんとうのコーヒーの入れ方を説いた最後に、「インスタントコーヒー」について、「残念ながら、世の中には、ああいうものを飲む不幸な人々がいる、ということを知っておくにとどめたい」と書いた一編があった。

ネスカフェ全盛という時代があったわけだが、その一方、サイフォンを沸かしたり、ネルドリップを使う「珈琲専門店」もあり、なかには美味いコーヒーを入れる店もあった。タバコをくゆらせながら、モカの酸味を味わい、表紙カバーのない文庫本をめくり、しおりをはさむ。出入り口のドアを見遣って、腕時計で待ち合わせの時間をたしかめる。そんな喫茶店はもう、神田神保町界隈だけにしか残っていないように思える。

そうそう、一服の話をするつもりだった。「一服しよう」「ちょっと一服するか」の一服は、耳触りのよい言葉である。一服には、喫茶と喫煙の両方の意味があり、両方を一緒にとりおこなうことも多いが、順序としてまずは喫煙の一服だろう。もう遠い昔のようにさえ思えるが、かつて、屋内外、町中の至る所で煙草が吸えた。「昔はよかった」という気はない。ただいまの「喫煙所」には、なじめないと言いたいだけ。

JTが設置したのだろうが、いかにも片隅に押しやられた、隔離されたような「喫煙所」で一服する気にはなれないし、一服した気にはならない。かといって、だれ憚ることなく、ゆっくりと紫煙を楽しむ場所は、自宅以外にはほとんどない。新橋に喫煙喫茶店なるものができて、繁盛しているという話しを聞くが、それも何かいじましく思える。ところが、本日、昼下がりの日暮里で、格好の一服所(いっぷくしょ)を見つけた。

これから、機会があれば、そんな都会のオアシスを紹介していきたいので、「知ってるよ、あそこはいいよ」という一服所があれば、情報を寄せてくださるよう、ぜひお願いする。

JR日暮里駅を下車して、線路に沿うように鶯谷方向へ歩いて5分。根岸芋坂「羽二重団子」本店が、今回の一服所である。ビルの一階ながら、古い和菓子屋風の狭い入口から薄暗い店内に入ると、売店の奥にテーブル席が6席のほかに、30人以上が入れそうな座敷を備えた、なかなか広い喫茶室がある。勘定場の上に、田山花袋の書が飾ってあり、「子団重二羽」とだけ書かれ、「昭和七年 花袋」と添え書きされている。



テーブル席は大ガラスに面し、その向こうに、小さいながら和庭園が眺められる。2mほどの滝が流れ込む小さな池には鯉。石灯籠がいくつか配され、商家らしくお稲荷さんもある。土曜日というのに、客は少なく、店内は静かだ。煎茶と餡・焼きの団子2本セットを注文する。氷宇治金時630円にも気がそそられる。もちろん、店内は禁煙である。だが、庭に出られるのだ。

庭への出口には、「喫煙はこちらで」という張り紙。池を前にして、縁台が据えられ、灰壺が置かれている。こんな分煙なら大歓迎だ。水音と鯉の泳ぐ姿に涼みながら、一服つけていると、「蚊取り線香をお持ちしました」と白い三角巾を頭にかぶった店員が。その心遣いが嬉しい。「この滝は・・・、水道でしょうね」と声をかける。「ええ、循環しています。夜は止めているんですよ」とのこと。

国語の教科書に載っていたフランキー堺に似た田山花袋の写真を思い浮かべながら、なぜ「羽二重団子」という書を残したのだろうと考えた。代表作が「蒲団」だから、花袋は即物的な表現を好んだのかもしれない。考えてみれば、「蒲団」(かまだん、ではなく、ふとんと読みます)とは、凄いタイトルです。あなた、「蒲団」という題の小説を書いて文学賞に応募しますか? それも、住み込みの女弟子に振られて、彼女の蒲団に顔を埋め、その匂いを嗅いで泣くという結末ですよ。

(敬称略)
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