MARDI GRAS,1888
木場公園に隣接する東京都現代美術館の地下一階に、こじんまりとした美術図書館が併設されている。その閲覧デスクで、「近代絵画の父」といわれるセザンヌ(Paul Cezanne)のレゾネを開いた。
レゾネとは、物故画家の全作品が掲載されているカタログのこと。ただしくは、カタログ-レゾネ(仏 catalogue raisonn)といい、哲学用語のレゾンデートル(仏 raison d'etre=存在基盤)と同じraisonである。
セザンヌの絵を掲載した本だが、レゾネと画集はまったく異なるものだ。たとえば、小学館や講談社の美術全集からセザンヌの一冊を手にとれば、美術史の画期をなした静物画や風景画、肖像画の代表作や傑作が解説付きで掲載されている。が、それらは作品のすべてではなく、選ばれた一部にすぎない。
一方、カタログであるレゾネには傑作ばかりでなく、凡作や習作などを含めて、セザンヌ作品のすべてが網羅されている。何かの事情で失われた作品もあるはずだから、ただしくは確認されているセザンヌ作品のすべてだが。
分厚い表紙を開いてみれば、いちばんの違いはすぐにわかる。画集が色付きに対し、レゾネは白黒である。画集は撮影と印刷技術の粋をきわめて本画の色が再現されているが、レゾネではすべてモノクロ印刷であり、光沢のあるコート紙を使っていても、いちだん低い紙質とわかる。
画集が芸術の複製とすれば、レゾネは作品見本である。だから、画題や制作年、サイズ、油彩か水彩か、など絵に関するデータは共通するものの、レゾネには鑑賞に資する解説はない。ただし、レゾネの巻末には、画集にない重要な情報が記されている。各作品のオーナーリストだ。
そのレゾネの刊行時に、どこの美術館や収集家がその作品を所蔵しているか、セザンヌのどの絵の持ち主がどこの誰なのか、たちどころにわかる。つまり、画集を眺めるのは、絵画芸術を愛する美術愛好家たちだが、レゾネを見るのは、美術商や学芸員、美術史家や鑑定家といったプロたちに限られるのだ。なぜか。真贋を判断するためである。
セザンヌの作品と称する絵が持ち込まれたとき、このレゾネを開けば、その絵柄からどの絵か特定できる。少し絵柄が違っていても、どの絵の習作なのか、連作なのか、あるいは、レゾネには掲載されていない絵柄なら、オークションで高値を呼ぶ未知の作品の大発見という可能性もある。
とはいえ、たいていは、贋作を見分けるための第一次参照資料として利用されるカタログ以上のものではなく、絵柄/構図とタッチがわかればじゅうぶんなので、あえて白黒印刷なのである。
しかし、セザンヌのレゾネを眺めるというのは、美術全集や銀行のカレンダーなどに、美麗に印刷されたセザンヌの絵を見るのとは、まったくべつな体験といえるものだった。一言でいえば、セザンヌの絵は怖かった。
セザンヌの絵
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=cezanne&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
http://matome.naver.jp/odai/2129770597693366501?lastUpdated=1297706162607
これらのセザンヌの絵がすべて、その色彩を失い白黒になったとき、ただしくは白と黒とグレーになるわけだが、そこには色付きのときとはまったく異なる、静物や風景や肖像が立ち現れてくる。
どの絵にも共通する堅固な構図とタッチの力強さに、まず圧倒される。何十枚もの絵を眺めているうちに、やがてタッチ(触れる)がセザンヌの視線の動きに思えてくる。それは同時に、対象となる物や人から見返されている感覚を呼び起こすものだった。
レゾネは、制作年代順に、その一部はデッサンも含めて、全作品が網羅されている(セザンヌの場合、ドローイングのレゾネは別にあった)。意外に作品数が少ないので、一頁一頁、すべての作品を丁寧に眺めても、30分以上はかからない。
初期の荒々しいまでの筆遣いが、後の「静謐」といわれた静物画にも息づいていることが、色抜きでタッチが強調されるレゾネならでは、容易に見てとれる。
冷徹な視線という便利な言葉があるが、もっと踏み込んだ感想をいえば、セザンヌの視線は、非人間の視線だった。リンゴや皿、イスなどの静物や、木や森や山や家といった風景、人物や肖像から、対象から見返されているように、セザンヌもまた見ているような。
順序として、セザンヌが対象を見て描いた、のではなく、対象がセザンヌを見返したので描いた、そんな風に思えるくらいだ。
たとえば、肖像画では、私たちが知っている、温かい血が流れ、沸きはじめたお湯のように、さまざまな感情が次々に起きては消える、ふつうの人間の様子にはとても思えない。
618 MARDI GRAS,1888(レゾネをコピーしたもの)
セザンヌの肖像画や人物画には、心がない、精神がない。もしくは、心や精神がとるの足りないもののように無視されている。そう見えた。
樹木や岩石を見るように、あるいはそうした木石から見られたとしたなら、そうであるように、セザンヌは見ることで、見られている。そんな多方向からの無数の視線がタッチといえるが如き。
色が見えず形だけを見ている犬のような、父と子とはべつに存在する精霊のような、人間のものとは非なる、眼球が介在しない超視線。
私たちが見るとは、網膜に映った映像を信号化して脳に伝える仕組みだという。色とは脳に送る信号の種類に過ぎない。したがって、ほんとうに、葉は緑なのか、血は赤いのか、私たちが見ている色がそのとおりなのか、実はわからない。
実際、犬には私たちが見ているような色を見ていない。また色弱の人は、セザンヌやゴッホの絵を、私たちとはまったく違う絵として、その網膜に映し見ていることになる。
色のないレゾネの表紙を閉じると、やがて絵の形や輪郭は曖昧になり、記憶に残り脳裏に浮かぶのは、超視線と呼ぶしかないような、たくさんでありながらひとつでもある、よくわからない動きだ。
セザンヌのタッチがキャンパスの隅々まで満たしているように、この世界のどこにも溢れている、止まることのない、でたらめな運動のような視線。
そしてまた、レゾネを開き、モノクロのセザンヌの世界に戻ってみる。そこには宗教画のような神の視線とは違う、もっとプリミティブな、人間の不在を感じさせる眼がある。
セザンヌの風景画を、自然の風物だけを描いた絵を、眺め見るとき、そのキャンパスや額縁から出た外の世界にも、人間は一人もいないかのように思える。そんな人間がいない、人気(ひとけ)を感じさせない風景を、私は見たことがない。
セザンヌが見たようには、私にはけっして見えない。それなのに、セザンヌの絵を見ると、何か覚えがある気がする。それが怖い。
Paul Cezanne 自画像(レゾネをコピー)
(敬称略)