ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

「ヤンキーと地元」

2023-05-21 10:46:32 | 読書
「ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち」打越正行 2019年 筑摩書房

息子の中学時代を通して知り合った若者の現実がここにある。
息子が巻き込まれた事件の背景がここにある。

地元とのつながりは、生きる糧でもあるが、闇への引き金でもある。
そういう繋がりの中で生きている若者たち。

辛い。
でも、ないもののように過ごすことはできないから、読む。

ダンデルヌ兄弟の映画。
「息子のまなざし」「ある子ども」「少年と自転車」

生きることの厳しさ。それでも人を信じるということ。

闘う、逃げる、関わらない。
どの生き方もある。
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アンブレイカブル

2023-05-01 15:43:34 | 読書
今年1月20日に本の断捨離について書いた。

その本の主な行き先がすぅさん。
すぅさんからも本が来る。
お互い、自分の好きな本を押しつけ合っている。

好きなのが似ているので、安心して押しつけられる。
お互いが同じ本を押しつけ合ったこともある。
その時の本は、他の人に回っていった。

『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』(佐竹直子/北海道新聞社)も薦められて読んだ本だ。
「気が重くなるかもしれないけれど」という言葉を添えて。

「気が重くなる」本は、エネルギーのあるときしか読めない。
けれど、読まなくてはいけない本が多いし、読んだ後「これは読むべきだった」と確かに思う。
『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』もそんな本だった。
それにつけても、「好きな本」の感覚が似ていると思う。

『アンブレイカブル』(柳広司/角川書店)を読んだき、『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』を思い出した。
早速すぅさんに薦めた。

治安維持法によって特高警察が勢力をふるった時代。
最初に小林多喜二が出てくるが、物語の主人公は有名人というわけではない。

怖い小説だった。
個人の思いと離れて社会は暴走していく。
同じことが今進行している。
傍観していて良いのか。
でも何ができるというのか。

少なくとも身近なところで民主主義を大事にしたい。
そんな思いを新たに。
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ダニがチーズをおいしくする

2022-04-30 10:11:28 | 読書

『幻のシロン・チーズを探せ』

チーズが食べたくなる本。
チーズ好き、ワイン好きはこれを読まないではおれないでしょう。

実は島野さんとは以前ダニラー(ダニ仲間)として親しくさせてもらっていました。
島野さんから「分散飼育で、絶滅を防ぐため協力してほしい」と言われ、ミモレットやミルベンケーゼ、アーティズー、ライオル、カンタルのダニを飼育していました。島野さんが遺伝子解析をおこなったというダニです。サレールは記憶にない。

ミモレットがダニと関係しているという話は、ダニ研究に携わっている人なら知らない話ではなかったけれど、島野さんから飼育を託されたとき、「日本のどこかでダニチーズがつくれるといいね」と(自分の育てたダニのチーズで大儲けするなんてことをチラッと夢想したりして)、いっきに身近になりました。

詳しい話を聴いていなかったので、ミルベンケーゼ、アーティズー、ライオル、カンタルという名前はおそらくチーズの名前でダニの種名ではないと思っていたけれど、やはりそうだったのですね。
カンタル以外は、同じ種ということだけれど、同じ飼育条件下で成長度合いが異なっていたのは興味深いです。もともと一緒に住んでいたカビや細菌などの環境が異なったのかもしれません。

けれど大学の職を退くと、大学のように装置がないのでダニの培地となる穀類の粉(餌となるのはチーズのようだけれど)を滅菌する手間や飼育場所の問題(家では冷蔵庫に入れておいたのだけれど)などの問題、何より私のメンタル(退職してエネルギーがガタ落ちになった)の問題もあり、とうとうカビだらけにして飼育を断念してしまいました。(本書で、カビで死んだのではなく、バクテリアのせいで絶滅した結果カビが増殖すると知りました。)

島野さんに「エーッ」と言われたけれど。

大学に勤めた当初、使える実験室がなく、何より他にやることが多すぎて、そこでまずダニ研究に対する情熱が減退してしまったのですが、今となっては1ミリもなくなってしまいました。
それでもダニに対する愛着は今でも感じるのです。

というわけで、私は使命を果たせなかったけれど、島野さんのチーズダニ研究がこんな面白い本になって、よかった!

イラストや写真がふんだんにあるのも楽しい。
イラストは佐々木宏さん。
実は島野さんのもっているダニブローチがうらやましく、私も佐々木さんにブローチをつくってもらいました。メールや郵便のやり取りでお目にかかったことはないのですが。宝にしています。
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昔と今ー『むかし・あけぼの』

2022-01-25 09:01:13 | 読書
田辺聖子著『むかし・あけぼの』

清少納言が御匣殿(みくしげどの)の局にあそびにいったおり、下男がやって来て、秣小屋の火事で住宅が類焼した」と訴える。何一つ取り出す暇がなく、妻子も含めて他人の家に宿を借りているという。「やどかりのように人の家に尻をさし入れて」というのがおかしいと皆で笑った。そこで清少納言が
御秣(みまくさ)をもやすばかりの春のひに 
 よどのさへなどのこらざるらん

という歌を書いてその下男にやる。「これは何の書付でございましょう。これで、どれほどのものがいただけますんで」という文字もろくに読めない下男をまたみんなで笑いものにする。そのことが「面白い」ともてはやされ、あちこちで面白く語られる。清少納言も得意げに語るようになる。

清少納言がよりを戻したもと夫の則光にその話をする。
則光は
「その男にしてみたら、一首の歌よりも、一すじの布のほうが嬉しかったんだよな」
という。清少納言は、歌を解さない則光にカッとなる。
「あんたなら、そういうだろうと思ったけれど、私が笑ったのは、下々の人間って何て貧弱な精神なんだろう、と思ったからよ。我々なら丸焼けになったって、そんな歌を考えて興に入っていたろう、と思うわ。云々」

則光は
「生意気いうな! 人間は、仏の前では平等で、そう変わるもんじゃないぜ。困った境遇に落とされれば、泣き患うのは大臣(おとど)も同じさ。云々。その下男はまた、なんだって、よりにもよって、一番薄情なところへいったんだろうな、かわいそうに」
という。
この則光の反応は、至極まっとうだと思う。歌の風情を理解する、しない、以前の、人としてのスタンスがまとも。清少納言にとて、もしもてはやされたのがライバルの女御だったら、則光の言うことをもっと違った気持ちで受け止めただろう。

けれど、歌を解さない則光を下に見てるから、ここで反省がない。
そして

なんで男ってものは、女が、
(これ、ご覧なさいよ)
とか
(ほら、ね)
と指示した時に、
(ほんに、そうだね)
(お前のいう通り)
といわないのだ。
もう決して女に同調しないのだから。
(いんにゃ、ちがう)
(そうかなあ、そういうもんじゃないだろ)
と必ず反対する。


話の本質をそらして、「そっちか?」という突込みもあるが、
けれど今もなお女性たちが一度ならず抱いたであろう思いを代弁するのである。

田辺聖子のこういった清少納言の描写が実に巧みだ。
宮中に登って、中宮や教養ある男たちにもてはやされ、天狗になっている清少納言と、
現代人もうなずく心理の機微を書き留める清少納言と。

単に高慢ちきだけではなく、身近に感じる清少納言の魅力を示してくれる。

平安時代のような過去のものを読む時、
現代の感覚で読んではいけないことはわかるが、それでも下々だからと笑いものにすることが、当時であっても良いこととは思われない。

話は変わるが
源氏物語を最初に読んだのはいつだったか。大学生の頃だったと思う。
与謝野晶子の現代語訳で読んだ。
その後沖縄在住の時、別の人の現代語訳でもう一度読んだが、それが誰の訳だったのか思い出せない。

二度目に読んだ時、光源氏が紫の上にしたことは、今でいえば児童誘拐監禁すなわち犯罪だと思った。
それ以来、源氏物語は、というか光源氏という人は好きになれない。

女性を誘拐して花嫁にする、という風習は、まだ世界のある地域には残っているという。
その地の風習だから、昔のことだから、と、肯定できることなんだろうか。

古典を読むということは、異文化理解だと聞いたが、理解しても肯定できないことはある。

私も自分の価値観で判断する。
それが正しいとは限らないことも知っている。
でも、変だと思うことは「変だ」と言ったほうがよいのだと思う。
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志向意識水準ー『友達の数は何人? ダンバー数とつながりの進化心理学』より

2021-07-12 13:29:01 | 読書


相手の思考の中身を推察する能力を志向意識水準(intentinality)と言うそうな。

「私は~だと思う」「私は~と考える」というように自分の心の内を了解していることを、一次志向水準をもつという【私の思いや考え】。
「きみは……と思ってるんじゃないか」と他者の心のうちに意識を向ける能力は二次志向意識水準になる【相手の思いや考え】。
このきみの心のうちへの意識(推察?)に基づいて私の望みを了解し(三次志向意識水準)【相手の思いや考えをもとにした私の思いや考え】、
自分がどうしたいのか(四次志向意識水準)【それにもとづいた自分の意思】ということをきみに信じてもらう(五次志向意識水準)【それを相手が理解するという了解】までが、正常な大人ならだいたい到達する。

著書よりそのまま引用すると
「私が思うに(1)、きみはこう考えてるんだろう?(2)、つまり私が望んでいるのは(3)、私が……するつもりだと(4)、きみに信じてもらう(5)ことなんだと」
以上。

フィクションの世界を構築するには高い志向意識水準が必要だ。
六次志向意識水準の例として、シェイクスピアが出てくる。
『オセロ』ではイアーゴーがオセロを陥れようとしている。そのためにありもしないデスデモーナの不倫をオセロに信じ込ませる。ハンカチとキャシオーを巧みに使って。実際はそうではないのに、イアーゴーによってオセロは信じ込まされ、悲劇へとつきすすんでしまう。
実際にはそうではないと知りながら、オセロが信じ込まされるという状況を、観客は了解する。
観客に五次志向意識水準にいたらせることを想定できるシェイクスピアは、六次志向意識水準に到達しているというわけである。この水準には、誰もが到達できるというわけではない。

実は、この本は認知・進化人類学の分野の話で、志向意識水準の話だけで終わるのではないけれど、もう少し考えたいので記しておく。
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