車山高原から望む タラの芽はまだ出ていなかった
朝食での夫との会話。
「今日は日傘が必要です」という天気情報を聞きながら
夫「男も日傘をさしていたけれど、明治時代に男が日傘をさすのは禁止されたらしいね」
私「それ、江戸時代とちがう?」
前日の新聞を取り出す。天声人語。
「江戸時代後期に、医者と女以外は日傘禁止の令が出された」とある。
次のニュースは、22年前に息子を殺されたお父さんの声明が話題となる。
夫「いつまでも死んだ子どもの年を数えているって、つらいやろうな」
私「いつもいつも思い出していると、年月によって癒されるということもないのかもね」
夫「乗り越えるには、宗教か哲学が必要やろな」
私「ほら、アメリカの、太った映画監督」
夫「マイケル・ムーアか?」
私「そう!『マイケル・ムーアの世界戦略』に出てきたノルウェーの、息子をテロで殺されたお父さん。復讐したいとは思わない、犯人を憎んでも仕方ない、みたいなこと、言ってなかった?」
夫「宗教があるからかな」
私「それから、ほら南アフリカの元大統領」
夫「ネルソン・マンデラ」
私「そう!彼はすごかったね。対立した相手を憎むのではなく、許して共存しようとした。どうしたら、そうなれるのかな」
夫「やっぱり、思想や哲学が必要になるなあ」
子どもを失った悲しみを克服するのは並大抵のことではないと思う。
いや、克服などできないだろうと想像する。
ここで深い話に移行するはずだったが
夫「でも、なんで江戸時代を覚えていて、マンデラが出てこんのや」
という展開。
私「江戸時代は、かずさんの覚え間違いやんか。名前が出てこんのはど忘れ。ちょっと忘れただけ。すぐ思い出す」
私「ど忘れの『ど』と、どけちの『ど』は、同じかな?ど忘れは、ちょっと忘れる」
夫「どけちは、ものすごくけち」
意味を調べる。
ど忘れ=よく知っているはずの物事をふと忘れてしまって、どうしても思いだせないこと。
どけち=非常にけちであること。また、そのさま。
私「どうしても思い出せない、とあるで。非常に、という意味で共通しているんやな」
と、一件落着したのだが…。
どけち、どあほ、ど根性の『ど』は『度』らしい。
それに対して、どわすれのほうは『胴忘れ』とある。『胴忘れ』が『度忘れ』に変換されたのか。
『胴忘れ』って何?
「(自分の)頭は覚えてるけど、(自分の)胴が覚えていないから体から出てきません」ってこと?
それとも
「覚えているんだけれど、(その言葉の)肝心の胴(中心部)が出てこない」ってこと?
どうでもよいような悩みへ遷移してしまった。