田辺聖子著『むかし・あけぼの』
清少納言が御匣殿(みくしげどの)の局にあそびにいったおり、下男がやって来て、秣小屋の火事で住宅が類焼した」と訴える。何一つ取り出す暇がなく、妻子も含めて他人の家に宿を借りているという。「やどかりのように人の家に尻をさし入れて」というのがおかしいと皆で笑った。そこで清少納言が
御秣(みまくさ)をもやすばかりの春のひに
よどのさへなどのこらざるらん
という歌を書いてその下男にやる。「これは何の書付でございましょう。これで、どれほどのものがいただけますんで」という文字もろくに読めない下男をまたみんなで笑いものにする。そのことが「面白い」ともてはやされ、あちこちで面白く語られる。清少納言も得意げに語るようになる。
清少納言がよりを戻したもと夫の則光にその話をする。
則光は
「その男にしてみたら、一首の歌よりも、一すじの布のほうが嬉しかったんだよな」
という。清少納言は、歌を解さない則光にカッとなる。
「あんたなら、そういうだろうと思ったけれど、私が笑ったのは、下々の人間って何て貧弱な精神なんだろう、と思ったからよ。我々なら丸焼けになったって、そんな歌を考えて興に入っていたろう、と思うわ。云々」
則光は
「生意気いうな! 人間は、仏の前では平等で、そう変わるもんじゃないぜ。困った境遇に落とされれば、泣き患うのは大臣(おとど)も同じさ。云々。その下男はまた、なんだって、よりにもよって、一番薄情なところへいったんだろうな、かわいそうに」
という。
この則光の反応は、至極まっとうだと思う。歌の風情を理解する、しない、以前の、人としてのスタンスがまとも。清少納言にとて、もしもてはやされたのがライバルの女御だったら、則光の言うことをもっと違った気持ちで受け止めただろう。
けれど、歌を解さない則光を下に見てるから、ここで反省がない。
そして
なんで男ってものは、女が、
(これ、ご覧なさいよ)
とか
(ほら、ね)
と指示した時に、
(ほんに、そうだね)
(お前のいう通り)
といわないのだ。
もう決して女に同調しないのだから。
(いんにゃ、ちがう)
(そうかなあ、そういうもんじゃないだろ)
と必ず反対する。
話の本質をそらして、「そっちか?」という突込みもあるが、
けれど今もなお女性たちが一度ならず抱いたであろう思いを代弁するのである。
田辺聖子のこういった清少納言の描写が実に巧みだ。
宮中に登って、中宮や教養ある男たちにもてはやされ、天狗になっている清少納言と、
現代人もうなずく心理の機微を書き留める清少納言と。
単に高慢ちきだけではなく、身近に感じる清少納言の魅力を示してくれる。
平安時代のような過去のものを読む時、
現代の感覚で読んではいけないことはわかるが、それでも下々だからと笑いものにすることが、当時であっても良いこととは思われない。
話は変わるが
源氏物語を最初に読んだのはいつだったか。大学生の頃だったと思う。
与謝野晶子の現代語訳で読んだ。
その後沖縄在住の時、別の人の現代語訳でもう一度読んだが、それが誰の訳だったのか思い出せない。
二度目に読んだ時、光源氏が紫の上にしたことは、今でいえば児童誘拐監禁すなわち犯罪だと思った。
それ以来、源氏物語は、というか光源氏という人は好きになれない。
女性を誘拐して花嫁にする、という風習は、まだ世界のある地域には残っているという。
その地の風習だから、昔のことだから、と、肯定できることなんだろうか。
古典を読むということは、異文化理解だと聞いたが、理解しても肯定できないことはある。
私も自分の価値観で判断する。
それが正しいとは限らないことも知っている。
でも、変だと思うことは「変だ」と言ったほうがよいのだと思う。
清少納言が御匣殿(みくしげどの)の局にあそびにいったおり、下男がやって来て、秣小屋の火事で住宅が類焼した」と訴える。何一つ取り出す暇がなく、妻子も含めて他人の家に宿を借りているという。「やどかりのように人の家に尻をさし入れて」というのがおかしいと皆で笑った。そこで清少納言が
御秣(みまくさ)をもやすばかりの春のひに
よどのさへなどのこらざるらん
という歌を書いてその下男にやる。「これは何の書付でございましょう。これで、どれほどのものがいただけますんで」という文字もろくに読めない下男をまたみんなで笑いものにする。そのことが「面白い」ともてはやされ、あちこちで面白く語られる。清少納言も得意げに語るようになる。
清少納言がよりを戻したもと夫の則光にその話をする。
則光は
「その男にしてみたら、一首の歌よりも、一すじの布のほうが嬉しかったんだよな」
という。清少納言は、歌を解さない則光にカッとなる。
「あんたなら、そういうだろうと思ったけれど、私が笑ったのは、下々の人間って何て貧弱な精神なんだろう、と思ったからよ。我々なら丸焼けになったって、そんな歌を考えて興に入っていたろう、と思うわ。云々」
則光は
「生意気いうな! 人間は、仏の前では平等で、そう変わるもんじゃないぜ。困った境遇に落とされれば、泣き患うのは大臣(おとど)も同じさ。云々。その下男はまた、なんだって、よりにもよって、一番薄情なところへいったんだろうな、かわいそうに」
という。
この則光の反応は、至極まっとうだと思う。歌の風情を理解する、しない、以前の、人としてのスタンスがまとも。清少納言にとて、もしもてはやされたのがライバルの女御だったら、則光の言うことをもっと違った気持ちで受け止めただろう。
けれど、歌を解さない則光を下に見てるから、ここで反省がない。
そして
なんで男ってものは、女が、
(これ、ご覧なさいよ)
とか
(ほら、ね)
と指示した時に、
(ほんに、そうだね)
(お前のいう通り)
といわないのだ。
もう決して女に同調しないのだから。
(いんにゃ、ちがう)
(そうかなあ、そういうもんじゃないだろ)
と必ず反対する。
話の本質をそらして、「そっちか?」という突込みもあるが、
けれど今もなお女性たちが一度ならず抱いたであろう思いを代弁するのである。
田辺聖子のこういった清少納言の描写が実に巧みだ。
宮中に登って、中宮や教養ある男たちにもてはやされ、天狗になっている清少納言と、
現代人もうなずく心理の機微を書き留める清少納言と。
単に高慢ちきだけではなく、身近に感じる清少納言の魅力を示してくれる。
平安時代のような過去のものを読む時、
現代の感覚で読んではいけないことはわかるが、それでも下々だからと笑いものにすることが、当時であっても良いこととは思われない。
話は変わるが
源氏物語を最初に読んだのはいつだったか。大学生の頃だったと思う。
与謝野晶子の現代語訳で読んだ。
その後沖縄在住の時、別の人の現代語訳でもう一度読んだが、それが誰の訳だったのか思い出せない。
二度目に読んだ時、光源氏が紫の上にしたことは、今でいえば児童誘拐監禁すなわち犯罪だと思った。
それ以来、源氏物語は、というか光源氏という人は好きになれない。
女性を誘拐して花嫁にする、という風習は、まだ世界のある地域には残っているという。
その地の風習だから、昔のことだから、と、肯定できることなんだろうか。
古典を読むということは、異文化理解だと聞いたが、理解しても肯定できないことはある。
私も自分の価値観で判断する。
それが正しいとは限らないことも知っている。
でも、変だと思うことは「変だ」と言ったほうがよいのだと思う。