ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

コミュニケーションについて

2022-04-26 09:57:01 | 芸術およびコミュニケーション
『演劇と教育』に夫とのコミュニケーションについて書いた。
それ以来、コミュニケーションについていろいろ考えている。

以前にも『なってみる学び』(渡辺貴裕・藤原由香里)から「フラットな対話の関係」を話題にした。

もうひとつの材料は、NPO法人アートインAsibinaによる「コミュニケーション教育事業」だ。
文化庁により「文化芸術による子供育成推進事業」が実施されており、その制度に乗っての実践である。
ほぼ月に1回の割合でNPO法人アートインAsibina主催による勉強会がオンラインあり、私も何回か参加させてもらった。
ここでいうコミュニケーションは何だろうと考えさせられる。

今、夫との良好なコミュニケーションが回復しつつある。
けれど私の中には、一方的にこちらが努力しているという思いと、
私という人間が夫に尊重されていないという思いがまだぬぐえない。
戦後の民主主義の時代に育ったはずだが、「男尊女卑」という刷り込みから逃れるのはなかなか難しいようだ。

私は演劇的な体験すなわち「なってみる学び」がコミュニケーション能力を育むだろうと思っている。ひとつには、なってみることで他者をくみ取ろうとするから。もうひとつはお互いに表現し合うことは、お互いに相手を感じようとすることにつながるから。

けれど演劇は(映画やオペラや、あらゆる芸術分野におよびそうだが)、「フラットな対話の関係」による豊かなコミュニケーションで創造される場合と、そうではない場合があるようだ。
演劇界でのセクハラ・パワハラの告発があとを絶たないのは、その関係においてコミュニケーションがいかに一方的であるかを示している。

例えば権威主義的な芸術家がコミュニケーションのワークショップをした場合、子どもたちは素晴らしい表現をつくることを学ぶかもしれない。
「ある演出家が小学校で劇を演出し、そのできばえに保護者から絶賛だったが、学級内での人間関係は悪く子どもたちが暗い顔をしていた」という話を沖縄で聞いたことがある。
そういうこともありえるだろう。

コミュニケーションがスキルで向上することはある。
人の話をよく聴くということは、訓練によってある程度身につけられる。
けれど関係性の問題だから、なかなか難しい。
他人の場合はこじれても距離をおけばよいけれど、家族関係の場合は本当に難しい。

4月23日の朝日新聞「多事奏論」(河合真美江)に「こんなことを言ったら笑われるかなと思っても言うのが勇気。だれかが言ったことに、よく思いついたなあと思えるのが愛」という言葉があった。お互いが愛と勇気をもって話し合えば、良いコミュニケーションが生まれるだろう。
つまり、スキルだけでは良好なコミュニケーションは生まれない。

声の大きい人、権威を持っている人は、自分のコミュニケーション能力(方法)に問題があるとは感じていない。

私は「人を人として尊重すること」と表現してきたが、実はこれがなかなか難しかったりする。
自分の理解できないことを遭遇すると、怖がったり逆にさげすんだりしてしまいがちなのだ。
私自身競争社会の中で育ち、そういった感覚から抜けられていないと思うことも多々ある。
いつでも誰にでも愛を持って接することは、私にはできない。

ロシアのウクライナ攻撃もあって、絶望的になる。
でも、絶望ばかりもしておられないので、少しずつ自分のできることからやっていこう…と、自分を励ましている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする