秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

桜餅と道明寺糒(どうみょうじほしい)

2012-03-20 | おでかけ・近畿
桜餅に関東風と関西風があるなんて知らんかった。

関西では、桜餅に使われるもち米は、正確には「道明寺または道明寺粉」といいます。
もち米を一度蒸して乾燥させたものを粗く砕いたもので、
道明寺粉の由来は大阪は藤井寺にある道明寺からきています。

一方、関東系は長命寺桜餅 
あんを包む餅は練った小麦粉を銅板でクレープ風に薄く焼かれてあります。


道明寺にはこの道明寺糒(どうみょうじほしい)が売られていました。
しかし自分で桜餅を作ることはないので見てただけ。

野中寺へと行く途中の和菓子店青木松風庵で、桜餅と鶯餅を1個づつ買い、
そして野中寺僧坊で前栽を眺めながらあっという間に完食。

「青木松風庵 桜餅 鶯餅」で検索したら見つかったのが最初の画像です。

道明寺糒(どうみょうじほしい)
紙紐で口が絞められた筒状の分厚い和紙のパッケージのラベルには
「大日本帝国、道明寺製造、登録商標」
「巴里大博覧会金牌受賞」
1900年のフランスで開催されたパリ万博へ出品して、金賞獲得!

「ほしいひ」の文字は豊臣秀吉の文字だそうです。 

道明寺糒(ほしい)の起源、道明寺ウェブサイトより引用
菅原道真公の伯母上が、この寺に住んで居られ、道真公が築紫に左遷された後、毎日、伯母の覚寿尼が九州に向ってお供へされたご飯のおさがりを、分かち与へたが、これをいただくと病気がなほるといふのが評判となり、希望者が多くなるにつれてあらかじめ乾燥、貯蔵するようになったのが糒のはじまりで、千年以上前の事です。
「ほしい」は純粋のもちごめを二日間水につけて、のち、むしあげ屋内で十日程乾燥し、のち二十日程天火で干してから石ウスにかけて仕上げます。
和紙の袋の上の「ほしいひ」の文字は豊臣秀吉の文字です。
江戸時代には金裡、将軍家に献納したのち、諸侯の求めに応じて少量づつわかつていたが明治以後は一般民間にも販売するようになりました。
寒中に作つてあり幾年をすごしても変質、変色せず、昔は軍糧にしたもので行軍、山登りなどには欠くことの出来ないものです。










道明寺は黎明期の大和朝廷の有力豪族、土師(はじ)氏の根拠地であり、
「糒」の備蓄に関わり大きな力を保持していたと言われています。

 像高98cm
国宝の木造十一面観音立像は、秘仏で18日には開扉されます。
平安時代初期、9世紀の菅原道真公作。
カヤ材の一木造で、彩色を施さない素地仕上げ


東日本大震災は、869年貞観地震の再来 といわれます。

菅原道真公は845年生まれで、貞観元年(859年)元服。
貞観12年(870)方略試(高等文官試験)に合格。
若き菅原道真が受験した貞観12年の高等文官試験には「地震を論ぜよ」という問題があったそうです。

貞観地震の9年後878年に関東南部で発生した大地震
菅原道真らが編纂 した『日本三代実録』にはこの地震の被害が記されています。
詳しくは→こちらでどうぞ

西日本では
貞観10年(868年)播磨地震(山崎断層を震源とする地震)
仁和3年(887年)仁和地震(南海地震、M 8.0~8.5)

暁や 鳥なき里の ほととぎす★一茶

2012-03-20 | おでかけ・近畿
近鉄南大阪線道明寺駅で降りて、5分も歩かないうちに道明寺天満宮に到着。
毎月25日は天神さんの日で骨董市が開催されるようですが、
その1週間前だというのに駐車場に入る車がずっと並んでます。
電車で来てよかったわ~


左側が超混んでるのに、右側鳥居がある参道の露店は閑散としていた。
なんで?
天神さんって、露店も変わってるなぁ~と眺めて歩いた。


どうやら手づくり市が開催されていたのでした。
神社らしからぬオーガニッククッキーとかパンとかほおばる若者が群がってました。
手づくりは食べ物もハンドメイド小物もけっこういいお値段しますので見てただけ。


ではお参りにご案内しましょう。







道明寺天満宮の御祭神は
菅原道真公(学問の神様)
天穂日命《あめのほひのみこと》(天照大神の御子様)
覚寿尼《かくじゅに》公(道真公のおば様)

菅原道真は大宰府に流される前、道明寺の尼僧であるおばさんにお別れに寄られました。
そして西海に赴かれる前にのこされた歌

鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もがな


この歌より道明寺に住む者は鶏を飼わないという信仰が続いています。

時代は下り江戸時代、この地を訪れた小林一茶が残した句

暁や 鳥なき里の ほととぎす
青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで


947(天暦元)年に道明寺天満宮が創建されるまで、土師社が本社でした。



垂仁天皇32年野見宿祢(のみのすくね)が勅問に答えて、初めて埴輪を創って殉死に代えました。
(大君が崩御され古墳に葬るとき、生贄から埴輪にかえることを提言)

その功により、土師の姓とこの付近一帯を所領地として賜わりました。

土師氏は代々この地に住み、天穂日命(あめのほひのみこと)とその御子天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)をその丘に祀り、毎年8月1日(新暦の9月1日)に盛大な祭礼を行いました。
これが現在でも毎年行われている八朔大祭です。

農家の節を祝う八朔祭と併せて、野見宿祢つながりで、小学生による奉納子供相撲大会が執り行なわれるそうです。




祭神は天夷鳥命・野見宿祢・大国主命の3柱です。

画像、左上の光、あまりに強烈で…


土師氏は古代の氏族で、埴輪を発明し古墳の造営にもかかわった。
仁徳天皇に土師連姓を賜っている。
土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれた。
道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地とした場所。
周辺には応神天皇陵、仲哀天皇陵、日本武尊白鳥陵、仲津媛陵、墓山古墳、三ツ塚古墳、誉田白鳥埴輪制作遺跡などの古墳や遺跡が集中している。