秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

運慶と快慶

2013-02-28 | おでかけ・近畿
今日のニュースで、運慶と快慶の仏像が国宝に指定されると知りました。
先週、東大寺の南大門で金剛力士像を撮影してきました。
すでに国宝指定されてる、8メートルを越える大きな像で迫力ありました。

しかし
風雨にさらされているため埃っぽいし、
おまけに金網で囲われていて写真ではその迫力伝わらない。






ネット検索でしっかり見える画像もらってきました。





実に力強い。

フェノロサは「日本人にとって運慶と湛慶は、欧米におけるミケランジェロに似た存在である」といいました。

この金剛力士像は1203年の作品です。

「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えた歴史年号1192年。
今ではほとんどの歴史教科書が1185年となってるそうです。
壇ノ浦の戦いで平家を破った年、1185年は
源頼朝が朝廷に日本全国への守護・地頭の設置を認めさせた年です。

実質的な支配が頼朝に移り、平安の貴族趣味から離れます。
武士の荒々しさを前面に出した作風は時代を反映したものでした。


1988年に始まった大修理で像の作者が明らかになりました。
吽形像の中から、大仏師定覚と湛慶、小仏師12人を記した経巻が見つかり、
阿形像には大仏師運慶、快慶の名と小仏師13人である旨が記されていました。
そしてすべての仕事を統括する大プロデューサーは運慶だったと専門家は推定しています。


運慶の父は興福寺の仏師康慶で、運慶はその父の下で仏師教育を受け
興福寺で“勾当(こうとう=下級の役職)”として仏師の活動をしていました。

快慶も同じく、仏師康慶の弟子でした。
当時、仏師をめざす者はこぞって京へのぼってました。
しかし快慶は天平の仏像に強く惹かれていたことから奈良仏師の棟梁であった運慶の父康慶の弟子に。

快慶は運慶ともども、南都で衝撃的な事件に巻き込まれます。
治承4年・1180年、平重衡の兵火により南都焼き討ち、壊滅的な被害を受けます。
東大寺も興福寺も焼けてしまいます。
そのときの兵火で焼け残ったのが、東大寺の八角燈籠、そして興福寺の阿修羅像です。



頼朝やその幕僚たちは、源平盛衰の戦で亡くなった兵士たちの菩提を弔うために、多くの寺を建立・開山しました。
なかに寺や檀家たちを慰めるため、あるいは世の平安を願うために仏像を安置。
戦乱は収まったものの、まだまだ世の中は落ち着いていない時代でした。

平家が滅び、興福寺の慶派仏師たちは鎌倉へ。
そして、東大寺や興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業にたずさわります。


東大寺の南大門を守る金剛力士像は、わずか69日間で製作されたと聞くと驚く。
当初は無理だと思われたその大きなプロジェクトに、
十数人の仏師を集めて分業して製作し、最後に合体させる方法で仕上げられました。

810年が過ぎた今も、金剛力士阿吽像は向き合い東大寺を固く護っています。

9 コメント

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迫力 (いやさかの木)
2013-03-01 00:57:08
いえいえ、うららさんの写真からもじゅうぶん伝わってきますよ。
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Unknown (くるみのママ)
2013-03-01 23:37:50
平成の大修理があったと思います。その時、写経をして、胎内に納めていただきました。

今見ても、迫力はすごいですよね。
確かにミケランジェロと評されるのも頷けます。
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いやさかの木さんへ (おざさ)
2013-03-02 08:50:56
ありがとうございます。
人間の目には、多少の暗闇でもそれなりに見えますし、
オーラと言うかパワーも目以外の器官で感じ取り、それを脳で統合してるのでしょうか。
実物は大きさもあり、何のウンチク知らずともすごいなぁ~と思えます。
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くるみのママさんへ (おざさ)
2013-03-02 08:54:15
1988年に始まった大修理、と書かれてあったのが平成の大修理ですね、きっと。
写経、おさめてもらえたとはいいチャンスでしたね。

当時は長男さん、すでに中学校通われてた?
四天王寺学園みたいに、学校が東大寺境内近辺にあるのかと思ってたら違うのね。
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Unknown (hidepon)
2013-03-05 17:08:37
うららさん、こんにちは。

快慶さん作、安倍文殊院の文珠さん、国宝指定目出度いことです。
快慶さんは寡作の上、現存が少ないので見る機会が限られるのは惜しいことですネ。
高野山の孔雀明王はいまだ重文のまま。
国宝の定義とは、一度文化庁に聞きたいものです。
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hideponさんへ (おざさ)
2013-03-05 23:35:30
hideponさんは仏像の絵をかかれるので観察眼が違うと思います。
私は今までたいていのものをぼ~ぅと見てました。

安倍文殊院の文殊さん、見たことあるかどうか記憶が定かでない。
高野山の孔雀明王はたぶん見てないと思います。
次見る機会があればしっかり目に焼き付けたいと思います。
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阿吽 (りひと)
2017-04-11 10:14:44
東大寺の金剛力士像って阿吽でいくと神社と逆なんでしょうね。逆の所が妙に好きなのでその一つで以前講演会で聞いた事があり今日気になり始めました。空気の流れとかは逆になるのか?ただ記事拝見して思うのは火に強いのでは?とも。
残ったのは八角のものと阿修羅さん。その後の護りとして作ったんですかね。

鎌倉で寺の伽藍も相当変えられてしまったり手を抜かれたりしているようですが日本のミケランジェロは気合入ってますよ。どういう信念や背景があったのか気になります。最近スポーツ見ていて思うのは男の美しさ。身体だけでない身のこなしも含めて。以前バレエをいっぱいみていたんですがそのうち男性ダンサーの方がバレエの魅力のように思ったり、宝塚もそう女性がやる男性の美しさは誇張されているようにも。

金剛力士像はそこに入るのか逆誇張なのか?時代は逆誇張ですけど信念はどうだったか?気になります。

芸術でいくとミケランジェロと仲良くなかったような気がするラファエロが大好きでしてそこも深読みします。ちょっと調べたらダビンチともとか情報もあるようですね。私はラファエロとダビンチ好きなのでどうなのかなあ?

ちょっと思うのは身体(ボディ)と魂(スピリット)どっちに重点の美を感じたか?なのかとも思いました。

ただ力士像というだけあって力士なら精神性もとても重要になってきたので両方とも揃った美しい男性がいっぱい出てくるのでしょうか?
マッチョとか筋肉にかなり注目されていますけどその身体を作るには相当コツコツの努力なり鍛錬が必要で自然に備わってくるのでしょうね。
運慶さんが火事の前か後どちらに完成させたかにもよりますけど、仏師自体も相当美しい仕事だったはずです。そういう意味で信念が表面や行動に現れた美しい方だったのでは?と思います。

個人的には湛慶さんも少し掘って(探って)みたくなりました。

鎌倉は何か分岐点でそこから今に繋げてくれている方いそう。一方は堕落していくだけですけど。
どっちが美しいのか?で見えてくる事でしょうね。3359 男の美しさって女と違ってブレないいうで安心な気がします。女はお花の名前のように裏切ったりしますから。
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りひとさんへ (ulala)
2017-04-13 14:07:23
社殿に向かって右が「阿」左が「吽」なのが一般的なんですって?
今まで見たものがどちらがどちらだったか思い出せないぐらい意識してませんでした。
日本の文字列、今は横書きなら左から右に流れますから、自然と左から阿吽かと思い込んでました。
でも縦書きなら右からですし、昔は看板の文字も右からでしたね。
こういった文字列の習慣とは関係ないのでしょうか。

日本のミケランジェロと呼ばれる石川雲蝶の作品が数多く残されてる新潟県。
魚沼の西福寺の開山堂の彫刻は、手に触れるぐらいの近くで迫力ありました。
去年秋みて感動したので、友達誘って3月にも見てきました。
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さすが、 (りひと)
2017-04-18 10:44:24
読み方の方向は確かに習慣が出ますね。今よりも昔は逆だったんでしたよね。
阿吽は黒と白とか陰陽とか正反対のモノを並列した形である意味祓いになりますね。

天石間戸とか門番さんたちもそうですし、疱瘡神と疫神とかも同じようなイメージです。
東北には阿吽逆あるみたいですし、東京の愛宕も逆ですね。どういう意味かは専門家が調べてくれてますね。

でも方向と思えば何かヒントになりそうです。ありがとうございました。4946
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