
SHINDACO~死んだ子の齢だけは数えておかねばならない
TACO、ガセネタ (山崎春美、遠藤ミチロウ、戸川純、佐藤薫、遠藤晶美、工藤冬里、松村正人、久下恵生、向島ゆり子、後飯塚僚、BANANA-UG、野々村文宏、香山リカ、長門洋平、渡邊未帆、他)
A-MUSIK (竹田賢一、大熊ワタル、千野秀一、小山哲人、中尾勘二)
“2015年11月17日、故・大里俊晴(1958~2009/音楽家、音楽批評家)の七回忌にコト寄せて。たくさんの死者たちとともに、三途の川っ縁を挟んでの壮絶にも一夜限りの宴を繰り広げます。題して略せば、シンダコ。”
80年代前半に「天国注射の昼」「自殺未遂ライブ」などで日本の初期のオルタナティブミュージックシーンに伝説を残した「TACO」とその前身の「ガセネタ」のオリジナルメンバーである乾純、そして遠藤ミチロウ、工藤冬里、佐藤薫、野々村文宏、向島ゆり子などが、インディーズロック発祥のライヴハウスともいえる「新宿LOFT」に結集し、大里ら他界したメンバーにイタコよろしく憑依して、アルバムの全曲を演奏する。ロリータ順子のパートは当時彼女と交遊があった戸川純が歌い、山崎春美が芸名を命名した香山リカも出演する。

『1980年に、あなたは何をしていた?』という質問に答えてみた。
高校三年生。理系のクラスだったが、数学が難し過ぎて、文転(文科系に転身すること)した。クラスでは特に目立つ存在ではなかったが、記念祭(文化祭)でパンクバンドをやって凄い人気を集め、一年生の五十嵐樹里(顔は忘れたが、名前は覚えてる。男なんてそんなもの)という女の子に告白された。しかし当時は、ブラスバンド部のアルトサックスの同級の女子に密かな想いを寄せていたので、本気で相手にしなかったら、手もつなぐことなくいつしか疎遠になった(プチ後悔)。結局彼女は出来なかったが、クラブ活動や学外のロック好きの友人とつるんでそれなりに充実した高校生活を送った。しかし翌年受験に失敗し1年間浪人生活を送ることになる。

吉祥寺にはいろんなレコード屋があった。南口のレコードプラント(1階国内盤、2階輸入盤)、水道道路の角のビルの上階のジョージア、安い中古盤のジョージ。北口には西友の隣のビルの地下のジョージア・ジュニア店、コスモビル2階のレコード舎、サンロードの真ん中の狭いビルの2階のトニーレコード、FFビルの1階にあった名曲堂は普通の地元のチェーン店なのに何故か海賊盤が充実していた。小遣いは限られていて、バイトもしていなかったが、昼食代を浮かしてレコードを買っていた。
パンク、ニューウェイヴが好きだったが、ギター雑誌『プレイヤー』でイラストレーターの八木康夫が連載していた「PIPCO'S」というコラムでフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハート、そしてレジデンツを知り、前衛的なロックに夢中になった。『フールズメイト』を読んでレコメン系プログレや世界各地のアングラロックの深みにハマっていった。丁度その年、三鷹に「黎紅堂(れいこうどう)」という貸しレコード屋が出来たのを知り、行ってみたら当時は入手困難だったファウストの1stアルバムがあって驚いた。

前年1979年に初めてライヴハウス(荻窪ロフトや吉祥寺マイナー)に東京ロッカーズ系のライヴを観に行った。80年も何度か行ったと思うが、ライヴハウスよりも法政大学学生会館の方が多かった気がする。グンジョーガクレヨンを学館で観て、カッコ良過ぎて震えるほど感動したのを覚えている。秋の記念祭が終わると受験勉強が忙しくなり、レコード屋やライヴに行くことが難しくなった。唯一の楽しみは、勉強の息抜きに行う宅録だった。当時ヒットしたイギリスのフライング・リザーズが、段ボールや玩具で演奏し、素人に歌わせて曲を作っていると聞いて、それなら自分にも出来ると思い、カセットデッキとラジカセを繫いで、ラジカセのミキシングマイクで音を重ねる、いわゆるピンポン録音を始めた。最初のうちはバンドを真似たカバー曲が中心だったが、徐々にレジデンツや19/JUKEの影響が濃くなり、81年浪人時代は、精神状態を反映し陰鬱なインダストリアルサウンドになった。勉強部屋から時折聴こえる奇妙な音や絶叫が、家族に与えたであろう不安と心労を考えると、申し訳ない気持ちでいたたまれなくなる。
Euqisumorih "愛があれば"
79年の独白はコチラ⇒【回想録】非常階段結成35周年記念ライヴ@初台The DOORS 2014.8.29(fri)
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