浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

雑誌2冊

2017-03-09 19:50:51 | その他
 今日、雑誌が二冊届いた。『週刊金曜日』と『Journalism』である。二つとも特集は、原発事故である。

 まず『週刊金曜日』から読み始めた。小出裕章氏の「フクシマの苦難は続く」。

 1年間20ミリシーベルトは、放射線業務従事者に許された基準である。そこでは、水を飲むことも、食べ物を口にすることも許されていない。しかし今、フクシマでは、「被曝によって何の恩恵も受けないごく普通の人々」に、この基準をあてはめる。またそうした被曝を避けて、遠方で暮らす人々もいる。被害者である。

 「被害」は、当然の如く、「加害」と対の概念である。しかしその「加害」の責任を負った者はひとりもいない。

 加害者は、「どんな悲惨な被害を生んでも決して処罰されずに済むことを、彼らはフクシマの教訓として学んだ」と、小出は書く。

 だが、こうしたことは日本では日常茶飯事だ。政治権力や支配層とつながっている者たちは、ほとんど処罰されない。彼らの行為は、許されてしまうのだ。司法までも、そういう姿勢を堅持している。三権分立なんて、砂上の楼閣であり続けている。

 
 遠隔操作カメラが事故を起こした原発内部に挿入されたとき、一時間あたり530あるいは650シーベルトを計測した。「人間は8シーベルト被曝すると、確実に死ぬ」。

 小出は、こう記している。

 溶けた核燃料は原子炉圧力容器の底を熔けて落下し、さらにペデスタルの外部に流れ出、飛び散ってしまっているのである。熔け落ちた核燃料をつかむことはできないし、事故収束は彼らのいうように数十年では済まない。今日生きている人間の誰ひとりとして事故の収束を見ることができない。

 どれほど重大な事故を引き起こしたのか、東電や支配層は、目先の利益のことばかり考えているためか、その自覚はない。だから、原発周辺の放射線量が高いところに住民を帰還させる。

 だが、すぐ近くに、人間を即死させるほどの線量の放射能があるという恐怖は、絶対に消えない。

 支配層は、権力とつながる人々は救う。だがそうでない人々は、利用するか棄てるかの二つしかない。この現実は、ずっと変えられないのだろうか。
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鶏冠(とさか)で考える人

2017-03-09 17:19:38 | その他
 今、私は他人と話す時間をほとんどもたない。今日も午前中は畑に行き、午後は家にこもって本を読んでいた。私にとっての対話とは、自然とのそれと活字とのそれだけだ。それが日常となっている。もちろん時々人々の中に入ることはあるが、それは日常ではない。

 『日刊ゲンダイ』の,次の記事を読んで、そういえばと思いだしたことがあった。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/201070

 この記事は、首相夫人のことが記されているのだが、こういう人物は時々いる。

 人間だから考えることはするのであろうが、それがその人の人格とまったくつながっていかないという人間、私の言い方では「鶏冠で考える人」。頭の突先だけで考える、それが脳やからだに伝わらないのですぐに消えていく、だからそういう人の思考はほとんどすべてが単独であって、過去に考えたこととの連結がない。要するにものすごく軽いのだ。

 だから辺野古にも行くし、森友学園にも行くし、どんなことでもやるのだが、それらはすべて単独であって、同時にそのひとの人格とはつながっていないから、すべてが何の意味もない。だいたい意味なんか考えない。こういう人にとって、「人間とは何か」という問いは無縁なのだ。

 辺野古にも行ったりしたことから「家庭内野党」では、などというへんな「期待」をもった人がいたようだが、こういう人物に「期待」してはいけない。無駄だ。

 鶏冠で考える人に、時に会うことがある。少し話をすればそういう人はすぐわかる。私は、心の中で、「無駄だな」と思い遠ざかる。

 残念ながら、こういう人物はかなりいるのだ。この世を、ふわふわと渡っていく。この世を、年がら年中「春」であるかのように生きていく。

 
 考えるということは、みずからの人格との関わりの中で、今までの自分自身と対話する、ということだ。そういう経験をもたない人間が、増えているような気がする。
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チェーホフ

2017-03-09 08:44:13 | その他
 今日の『東京新聞』、劇団俳優の鈴木瑞穂氏のチェーホフとの関わりが記載されていた。

 学生時代から演劇を見続けてきた私は、チェーホフの舞台はかなりの数みてきた。思い出深いのは、俳優座劇場での「桜の園」だったか、円形舞台で上演されたものだ。舞台にむかって観客が並ぶ、というのではなく、客席の真ん中に舞台があり、観客は四方八方から劇を見るという劇場であった。

 それ以外にも、日本ではチェーホフはよく上演される。私もチェーホフの戯曲を買って読んだりしていたが、結局全集を買ってしまったほど、チェーホフが好きであった。

 ロシアというところは、専制的な君主制、そしてスターリン体制など、民主主義的な社会とは縁遠い国ではあるが、チェーホフをはじめとした文学者、チャイコフスキーなどの作曲者が輩出している。

 私はロシア文学が好きで、ドストエフスキーはほぼすべて、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、プーシキン、トルストイなど学生時代はよく読んだ。ロシア文学を論じない者は学生にあらず、という時代でもあった。

 鈴木瑞穂氏は、この記事の中で、学生時代にもった「人間とは何か」という疑問を、演劇の中で追究していきたいとして演劇の世界に飛び込んだと記されている。

 チェーホフをはじめとして、ロシア文学の作家たちは、様々に「人間とは何か」を照射し書いている。私はドストエフスキーにもっとも影響を受けたのだが、ロシア文学の作家の作品は、人間について深い洞察をしていると思う。ロシアの政情がいろいろ報じられるが、ドストエフスキーらがでた国だから、とふと思うことがある。

 チェーホフは「権力を嫌い、弱者に温かいまなざしを注いだ」と、記事中にある。そうだろうと思う。しかしそれは、とりたてていうほどのこともなく、それはcommon senseでもある。

 逆に、権力を好み、弱者を虐げるという人物もいる。そういう輩が政治の世界へと進み出ていく。イヤな時代だ。ロシア文学は、確か、そういう人物もとりあげていたような気がする。うろ覚えであるが、そういう人物描写を読むとき、私の頭には、灰色に覆われた顔のない人物が造形されていた。そういう灰色の人間が、現代日本にはたくさんいる。

 「人間とは何か」という問いは、きわめて重要だ。しかし人間はその問いの解を得られないまま,この世を去っていく。

 永遠の問いなのだ。その解を求めて、ひとは文学を読む。そこにはその問いを求めて苦闘した姿の片鱗が語られる。その片鱗を集めて集めても、解は与えられない。

 しかしその問いを離れたとき、人間は退廃しはじめる。



 
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