今日、雑誌が二冊届いた。『週刊金曜日』と『Journalism』である。二つとも特集は、原発事故である。
まず『週刊金曜日』から読み始めた。小出裕章氏の「フクシマの苦難は続く」。
1年間20ミリシーベルトは、放射線業務従事者に許された基準である。そこでは、水を飲むことも、食べ物を口にすることも許されていない。しかし今、フクシマでは、「被曝によって何の恩恵も受けないごく普通の人々」に、この基準をあてはめる。またそうした被曝を避けて、遠方で暮らす人々もいる。被害者である。
「被害」は、当然の如く、「加害」と対の概念である。しかしその「加害」の責任を負った者はひとりもいない。
加害者は、「どんな悲惨な被害を生んでも決して処罰されずに済むことを、彼らはフクシマの教訓として学んだ」と、小出は書く。
だが、こうしたことは日本では日常茶飯事だ。政治権力や支配層とつながっている者たちは、ほとんど処罰されない。彼らの行為は、許されてしまうのだ。司法までも、そういう姿勢を堅持している。三権分立なんて、砂上の楼閣であり続けている。
遠隔操作カメラが事故を起こした原発内部に挿入されたとき、一時間あたり530あるいは650シーベルトを計測した。「人間は8シーベルト被曝すると、確実に死ぬ」。
小出は、こう記している。
溶けた核燃料は原子炉圧力容器の底を熔けて落下し、さらにペデスタルの外部に流れ出、飛び散ってしまっているのである。熔け落ちた核燃料をつかむことはできないし、事故収束は彼らのいうように数十年では済まない。今日生きている人間の誰ひとりとして事故の収束を見ることができない。
どれほど重大な事故を引き起こしたのか、東電や支配層は、目先の利益のことばかり考えているためか、その自覚はない。だから、原発周辺の放射線量が高いところに住民を帰還させる。
だが、すぐ近くに、人間を即死させるほどの線量の放射能があるという恐怖は、絶対に消えない。
支配層は、権力とつながる人々は救う。だがそうでない人々は、利用するか棄てるかの二つしかない。この現実は、ずっと変えられないのだろうか。
まず『週刊金曜日』から読み始めた。小出裕章氏の「フクシマの苦難は続く」。
1年間20ミリシーベルトは、放射線業務従事者に許された基準である。そこでは、水を飲むことも、食べ物を口にすることも許されていない。しかし今、フクシマでは、「被曝によって何の恩恵も受けないごく普通の人々」に、この基準をあてはめる。またそうした被曝を避けて、遠方で暮らす人々もいる。被害者である。
「被害」は、当然の如く、「加害」と対の概念である。しかしその「加害」の責任を負った者はひとりもいない。
加害者は、「どんな悲惨な被害を生んでも決して処罰されずに済むことを、彼らはフクシマの教訓として学んだ」と、小出は書く。
だが、こうしたことは日本では日常茶飯事だ。政治権力や支配層とつながっている者たちは、ほとんど処罰されない。彼らの行為は、許されてしまうのだ。司法までも、そういう姿勢を堅持している。三権分立なんて、砂上の楼閣であり続けている。
遠隔操作カメラが事故を起こした原発内部に挿入されたとき、一時間あたり530あるいは650シーベルトを計測した。「人間は8シーベルト被曝すると、確実に死ぬ」。
小出は、こう記している。
溶けた核燃料は原子炉圧力容器の底を熔けて落下し、さらにペデスタルの外部に流れ出、飛び散ってしまっているのである。熔け落ちた核燃料をつかむことはできないし、事故収束は彼らのいうように数十年では済まない。今日生きている人間の誰ひとりとして事故の収束を見ることができない。
どれほど重大な事故を引き起こしたのか、東電や支配層は、目先の利益のことばかり考えているためか、その自覚はない。だから、原発周辺の放射線量が高いところに住民を帰還させる。
だが、すぐ近くに、人間を即死させるほどの線量の放射能があるという恐怖は、絶対に消えない。
支配層は、権力とつながる人々は救う。だがそうでない人々は、利用するか棄てるかの二つしかない。この現実は、ずっと変えられないのだろうか。