アメリカがイスラエル大使館をエルサレムに移すそうだ。何とバカな政策をするのか。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20170318-00000044-nnn-int
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昨日は、こまつ座の演劇、「化粧」をみた。井上ひさし・作のひとり芝居である。「化粧」は、今までは渡辺美佐子がずっとやっていて、私もそれを見た記憶がある。今回は平淑恵である。
大衆演劇座長・五月洋子が、観客席に向かって「化粧」しながら、語るのである。ひとり芝居であるから、舞台はひとりだけ。他人との語りはあるが、それはもちろん一方的に五月洋子が語るのである。
演劇は、ドラマであるから、舞台はどうしてもドラマティックでなければならない。ただ語るだけならドラマティックにならない。バックに流れる大衆歌謡(前半はこれだが、後半は芝居小屋を取りつぶす破壊音)、舞台装置、照明、そして五月洋子の所作も含めて、それらが総合されて、ひとり芝居をドラマティックにしていく。
五月洋子は座長であるから、その劇団を維持するためにそれはそれはたいへんな苦労をしてきた。その苦労話と、演目である「伊三郎別れ旅」の台詞・所作、劇団員への叱咤激励、そして訪問者との会話、それらが混合されるのだが、それこそ何が事実で、何が虚構なのかが明確ではない。
演劇というのは、舞台上で演じられる劇を、観客がみずからの頭脳で処理することにより納得的な世界を創造する。みずからの頭脳で処理するというのは、演劇というのは映画などと違ってわかりやすいストーリーが展開されるわけではないから、観客は演劇をみながらみずからの想像力を駆使して、舞台で繰り広げられるドラマからそれぞれが納得的な世界をつくりだすのである。したがって、演劇を見た後の感想は、千差万別のものになる。私は、そういう演劇こそあるべき姿であると思っている。演劇を見てワンパターンの感想しかでてこない、というのは、ある意味失敗作である(ただしミュージカルは別。ミュージカルは楽しむものだから)。
そういう観点からいうと、「化粧」は、演劇らしい演劇である。
基本的には二つの筋立てがある。ひとつは演目「伊三郎別れ旅」のストーリー、もうひとつは五月洋子が乳飲み子を乳児院に渡したこと、その子らしい青年(?)が楽屋を訪ねてくることからの五月洋子の人生の来し方、そして合間に入る劇団員との語り。そんなに楽しい筋立てではない。それに後半部分の破壊音は、芝居小屋がつぶされている音だ。そういう悲劇的な基調を背景にして、五月洋子の必死に生きてきた姿が浮き彫りになる。
これをみて私はどう感じたかをここで記さなければならないのだが、実は私はずっとなぜか客観的に(シラケて)見ていたので、劇そのものに入りこまなかった。私はかなり後ろの座席で見たからか、平淑恵の、おそらくドラマティックであっただろう表情を見られなかった。この演劇は、そもそも観客全員が役者の表情を見られる小さな劇場で上演すべきもの、したがって、この会場でも広すぎる。
だから私の感情はほとんど動かされなかった。
観客は、ほとんどが女性。もちろん高齢者中心である。男性の姿はちらほら。男性は何をしているのだろうかと、思った。
大衆演劇座長・五月洋子が、観客席に向かって「化粧」しながら、語るのである。ひとり芝居であるから、舞台はひとりだけ。他人との語りはあるが、それはもちろん一方的に五月洋子が語るのである。
演劇は、ドラマであるから、舞台はどうしてもドラマティックでなければならない。ただ語るだけならドラマティックにならない。バックに流れる大衆歌謡(前半はこれだが、後半は芝居小屋を取りつぶす破壊音)、舞台装置、照明、そして五月洋子の所作も含めて、それらが総合されて、ひとり芝居をドラマティックにしていく。
五月洋子は座長であるから、その劇団を維持するためにそれはそれはたいへんな苦労をしてきた。その苦労話と、演目である「伊三郎別れ旅」の台詞・所作、劇団員への叱咤激励、そして訪問者との会話、それらが混合されるのだが、それこそ何が事実で、何が虚構なのかが明確ではない。
演劇というのは、舞台上で演じられる劇を、観客がみずからの頭脳で処理することにより納得的な世界を創造する。みずからの頭脳で処理するというのは、演劇というのは映画などと違ってわかりやすいストーリーが展開されるわけではないから、観客は演劇をみながらみずからの想像力を駆使して、舞台で繰り広げられるドラマからそれぞれが納得的な世界をつくりだすのである。したがって、演劇を見た後の感想は、千差万別のものになる。私は、そういう演劇こそあるべき姿であると思っている。演劇を見てワンパターンの感想しかでてこない、というのは、ある意味失敗作である(ただしミュージカルは別。ミュージカルは楽しむものだから)。
そういう観点からいうと、「化粧」は、演劇らしい演劇である。
基本的には二つの筋立てがある。ひとつは演目「伊三郎別れ旅」のストーリー、もうひとつは五月洋子が乳飲み子を乳児院に渡したこと、その子らしい青年(?)が楽屋を訪ねてくることからの五月洋子の人生の来し方、そして合間に入る劇団員との語り。そんなに楽しい筋立てではない。それに後半部分の破壊音は、芝居小屋がつぶされている音だ。そういう悲劇的な基調を背景にして、五月洋子の必死に生きてきた姿が浮き彫りになる。
これをみて私はどう感じたかをここで記さなければならないのだが、実は私はずっとなぜか客観的に(シラケて)見ていたので、劇そのものに入りこまなかった。私はかなり後ろの座席で見たからか、平淑恵の、おそらくドラマティックであっただろう表情を見られなかった。この演劇は、そもそも観客全員が役者の表情を見られる小さな劇場で上演すべきもの、したがって、この会場でも広すぎる。
だから私の感情はほとんど動かされなかった。
観客は、ほとんどが女性。もちろん高齢者中心である。男性の姿はちらほら。男性は何をしているのだろうかと、思った。