『中日新聞』大津支局の浅井弘美さんは、「全国学力テスト10年」というテーマで、毎週日曜日「ニュースを問う」欄に書き続けてきた。この問題を追究し、継続的に調査してきたことを多としたい。その連載も今日で終わりである。
浅井さんには、『崩壊するアメリカの公教育』(岩波書店)を読み、安倍の学力テストを再登場させた背景を、アメリカの現状を報じる中で論じて欲しかった。
私は安倍の言動を見ていて、彼の学力が高いとはつゆほども思わない。むしろ低学力であると思う。その彼が、『美しい国へ』(私は読んではいない)のなかで、「喫緊の課題は学力の向上である」と記しているというのだが、ここにも傲慢が表されている。非道徳、反道徳の者が他人に道徳を説くように、低学力の者が他人の学力向上を図ろうとする。これが非権力者であるなら罪は少ないのだが、権力を持っているとそれを他人に強いるようになる。おのれを知らない者が、他人に学力向上や道徳を説く。あの森友学園の某一家と安倍とは、共通するところがある。まったくの同類項である。
全国で学力テストが行われ、その点数が都道府県別、あるいは学校別に公表されるようになると、そこに競争を強いる者があらわれる。
安倍は先の著書で、「全国的な学力調査を実施、その結果を公表するようにするべきではないか」、「結果が悪い学校には支援措置を講じ、それでも改善が見られない場合は、教員の入れ替えなどを強制的におこなえるようにすべきだ」と書いているようだが、このことばこそアメリカの公教育を破壊した言辞である。私は安倍がこの本をみずから書いたとは思えない。彼にはそんな学力はない。誰かが、アメリカで行われている公教育を、新自由主義的改革によって資本のカネ儲けの場とするような施策を書き込むようにさせたのだろう。
実際アメリカでは、貧困地域の公立の学校は学力テストの点数が悪いということからつぶされ、あるいは教員が解雇され、貧困地区の学校教育は民間の資本が子どもたちの教育を引き受けるようになった。
その背景には次のような事情もある。アメリカには「教育を受ける権利」という生存権的な規定がないからでもあるし、また学校教育の経費が固定資産税と州からの些少な補助金で運営されているために、学校は経済的に豊かな人々の住む固定資産税の高いところは、寄付金も含めて潤沢な資金により運営され、貧困地区はその逆でいつも資金難に陥っている。
私も子どもたちになにごとかを教えることをしてきたが、経済的に豊かな家庭の子どもに「結果が悪い」者はほとんどいない(なぜここでほとんどとしたのか、それは安倍の例があるからだ)ことを推測できる。逆に言えば、経済的な貧しさは、知的発達を妨げる。幼い頃から子ども向けの本に囲まれ、親に本を読んでもらったり、いろいろなところに連れて行ってもらったりして、多彩な経験をした子どもと、そういうことから疎外されてきた子どもと、どちらが知的発達をとげることができるかは、容易に判断できる。
「結果が悪い学校」を云々(そういえば、安倍はこの漢字を読めなかった。かれは「でんでん」と読んだ)するまえに、現在の格差解消のための施策を展開し、親にゆとりを与えれば、学力はおのずから向上していくはずだ。安倍がしなくてはいけないことは、こうしたことだ。
学力テストにより、都道府県、市町村、学校、そして子どもたちに序列をつけることが必要であるとはとても思えない。実際、私の経験から見ても、学校の成績が悪い者が社会に出て「悪い」生活をしているわけでもなく、逆に成績のよかった者が、鳴かず飛ばずで生きている例も見聞きしている。学力テストの点数が、人間の価値を決めるのでは決してない。
「ニュースを問う」欄の隣に、「視座」という欄があり、貴戸理恵さんが「「ただ在る」ことの大切さ」という文を書いている。趣旨は私が論じていることとは異なるが、「ただ在る」というそのこと自体に価値を認めることはとても大切なことだ。
というのも、人間にはいろいろな人間がいるということだ。
以前にもここで書いたことがあるが、生まれてからずっと寝たきりで、話すこともできないで、ただ生きているだけという人間もいる。私が映画で見たのは、子どもであったが、その子は一度も表情を変えることがなかった。感情表現すらできなかった。しかし、あるとき、その子どもを他の子どもたちと一緒にプールに浸からせたところ、その子は生まれて初めて笑顔を見せたのだ。それを見ていた私はとても感動した。その笑顔が、大きな感動をつくりだしたのだ。私は、「人間の尊厳」というものが何であるかを悟った。
学力テストは、ひとりひとり固有の価値を持った子どもを序列化し差別するシステムである。こういうシステムは、あってはならない。
岩波書店の『崩壊するアメリカの公教育』という本を読んで欲しいと思う。