先に紹介した『現代思想』の熊谷と杉田の対談のなかに、「中間層に届く言葉」、「マジョリティに届く言葉を本気で考えなくてはいけない」という熊谷の発言がある。
その通りだと思う。熊谷は、その背景の状況認識として、「マイノリティとマジョリティがかつてないほどに地続きになりつつある」ということをあげている。そうかもしれない、いやきっとそうだ。マジョリティにとって、日本の社会は、あるいは人生は、サーカスの空中綱渡りを歩んでいるようなもの、いつそこから落ちてマイノリティになるかもしれないという状況を生きている。
しかし、この後にある湯浅誠へのインタビューで、湯浅はこう語っている。
「まさか」は現実化するまで「まさか」なのです。・・・「「まさか」は誰にでも起こり得るのですよ」と言うのだけれど、彼岸から言われている感じがして、一般の人たちに届かない。
まさに湯浅の言葉は、私にとっても実感である。
たとえば、「共謀罪」が適用される場合がふつうの市民にも起こり得るという言説。私はそれを何度も話している。しかしそうした想像力を持つことができる人は少ない。「まさか」が現実化した時しか、ふつうの人は考えない。生活保護でも、親の介護の問題でも・・・とにかく現実化した時にはじめて人は考えるし行動するのである。
湯浅の言葉と、熊谷の語りは、両方ともその通りだと思うのだが、しかし現実には湯浅のことばが現実的なのである。
その通りだと思う。熊谷は、その背景の状況認識として、「マイノリティとマジョリティがかつてないほどに地続きになりつつある」ということをあげている。そうかもしれない、いやきっとそうだ。マジョリティにとって、日本の社会は、あるいは人生は、サーカスの空中綱渡りを歩んでいるようなもの、いつそこから落ちてマイノリティになるかもしれないという状況を生きている。
しかし、この後にある湯浅誠へのインタビューで、湯浅はこう語っている。
「まさか」は現実化するまで「まさか」なのです。・・・「「まさか」は誰にでも起こり得るのですよ」と言うのだけれど、彼岸から言われている感じがして、一般の人たちに届かない。
まさに湯浅の言葉は、私にとっても実感である。
たとえば、「共謀罪」が適用される場合がふつうの市民にも起こり得るという言説。私はそれを何度も話している。しかしそうした想像力を持つことができる人は少ない。「まさか」が現実化した時しか、ふつうの人は考えない。生活保護でも、親の介護の問題でも・・・とにかく現実化した時にはじめて人は考えるし行動するのである。
湯浅の言葉と、熊谷の語りは、両方ともその通りだと思うのだが、しかし現実には湯浅のことばが現実的なのである。