浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

マジョリティ

2017-05-21 23:54:48 | その他
 先に紹介した『現代思想』の熊谷と杉田の対談のなかに、「中間層に届く言葉」、「マジョリティに届く言葉を本気で考えなくてはいけない」という熊谷の発言がある。

 その通りだと思う。熊谷は、その背景の状況認識として、「マイノリティとマジョリティがかつてないほどに地続きになりつつある」ということをあげている。そうかもしれない、いやきっとそうだ。マジョリティにとって、日本の社会は、あるいは人生は、サーカスの空中綱渡りを歩んでいるようなもの、いつそこから落ちてマイノリティになるかもしれないという状況を生きている。

 しかし、この後にある湯浅誠へのインタビューで、湯浅はこう語っている。

 「まさか」は現実化するまで「まさか」なのです。・・・「「まさか」は誰にでも起こり得るのですよ」と言うのだけれど、彼岸から言われている感じがして、一般の人たちに届かない。

 まさに湯浅の言葉は、私にとっても実感である。

 たとえば、「共謀罪」が適用される場合がふつうの市民にも起こり得るという言説。私はそれを何度も話している。しかしそうした想像力を持つことができる人は少ない。「まさか」が現実化した時しか、ふつうの人は考えない。生活保護でも、親の介護の問題でも・・・とにかく現実化した時にはじめて人は考えるし行動するのである。

 湯浅の言葉と、熊谷の語りは、両方ともその通りだと思うのだが、しかし現実には湯浅のことばが現実的なのである。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健康と不健康のあいだ

2017-05-21 06:31:56 | その他
 昨日無理をして静岡へ行った。研究会の例会に参加するためだ。

 今私は、健康と不健康のあいだにいる。喉の不調はなおらない。咳がでる。一昨日から減ってはいるが、完治しているわけではない。不健康の状態のなかでは、知的作業は進まない。活字への飢えも消えてしまう。もちろんこうしてワープロを打つという作業も、ある種の「難儀」となる。ワープロを打つということは、「書く」ということでもある。「書く」という行為は、必然的に思考が伴う。思考がないと、「書く」という行為ができなくなる。

 思考はできなくても、できるものがある。それは農作業だ。農業には時期というものがある。収穫、耕運、種まき、植えつけ、水遣り・・・こうした作業は時期がある。したがって、不健康な状態でも畑には行く。日やけ防止に意を用いながら、マスクをして畑に出る、黙々と体を動かす。

 話すと咳が出るので、畑ではほとんど話さないから咳は出ない。畑では、健康のようだ。

 だが一端帰宅して、日々の知的な作業に取りかかろうとすると、継続しない。不健康なのだ。

 私は、健康と不健康のあいだを漂っている。

 しかし、昨夜から、少し知的な意欲が湧いてきた。昨日静岡市の書店で『現代思想』5月号を購入した。特集は「障害者ー思想と実践」である。障害者の問題にも関心を持ち続けてきた私としては、読まなければならないものであった。にもかかわらず注文していなかった。本当は日本評論社の『法律時報』臨時増刊号、「戦後日本憲法学70年の軌跡」を購入したかったのだが、ネットでも買えない、静岡の大きな書店ならあるだろうと思ってさがしたのだがない、雑誌コーナーで『現代思想』をみつけ、あっこれ買ってなかったと思い、購入し、帰りの電車の中で読みはじめた。

 『現代思想』というのは、どのような内容でも知的刺激を与えてくれる。知的刺激のない日常生活のなかでは、知的刺激をみずから求めていかなければならないのだが、『現代思想』の内容は、それにうってつけなのだ。

 熊谷晋一郎と杉田俊介の対談。杉田という人物は知らない。「批評家」なのだそうだ。しかし私は「批評家」というものに信をおいてはいない。この人『非モテの品格』(集英社新書)を出しているそうだが、おそらく絶対に読まない本だ。「非モテ」なることばも、私は知らない。

 この対談で、熊谷は「高齢化や二次障害」が、カフカの『変身』と同じような状況を生み出すようなことを語っていた。なるほど、私の身体は私の身体であるのに、私の自由にはならない。みずからの身体を意識しないでふつうに生きていたのに、あるとき身体に不調が発生し、身体を意識するようになる。すると、今までの日常がそのままでは維持できなくなってしまう。ひどい場合は「世界への信頼の構造みたいなものがガラッと失われる」こともある。

 ふむなるほど、『変身』は架空の話ではなく、人間の生活では不可避の「体験」なのだ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49866_41897.html

 ある朝起きてみたら、不健康になっていた、という経験。私の場合は、喉に異常を覚え、熱っぽく、咳が激しく出る、という状態。それが2週間も続く。

 突然襲い来る「変身」的状況に、人はその不可避を呪い、その状況から逃れたいと悶える。しかし逃れられないと悟った時、今までの日常が崩壊してしまっていることに気付く。

 喉の違和感は消えていない。「変身」的状況から逃れられるか。

 この後私は軽い朝食をとり、畑に水遣りに行く。その後、毎年夕顔の苗をあげていた方々に発芽させる種の処理の仕方を教えていたのに、誰もそれをしていなかったことを知らされ、「今年も苗をいただきたい」という申し出に愕然としつつ、夕顔の苗作りをする。わが家のは、すでに二つの大きな葉を備えて生長を始めている。

 不健康から健康へと、私の自由にならない身体は動き始めているように思える。

 「書く」という行為は、思考を取り戻すことでもある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする