今日午後、加藤健一事務所のBe My Baby という劇を見に行った。加藤健一は、静岡県磐田市出身の俳優である。彼は、ずっと前から、イギリスのコメディを翻訳してそれを舞台に乗せている。今までもそうした劇をみてきた。とはいっても長い間観劇から遠ざかっていたので、久しぶりということになる。
以前から疑問に思っていたことだが、加藤はなぜイギリス(あるいはアメリカ)の劇を日本で上演しているのか。今までいろいろな劇を見ているが、シェイクスピアは除き、英米系の劇は軽いという印象を持ってきている。すべてを見ているわけではないので、私自身の経験からしかいえないのだが、人生の大問題を直視するのではなく、人生の表層をさーっと撫でていく、そういうものが多いような気がする。メイドインロシアの劇は重厚だが、英米系はそうではない。比較すると、私は断然ロシアの劇が好きである。
さて、私は今日もドラマの進行に巻き込まれずに、冷静に見続けた。見ながら考えたことは、イギリスの笑いと日本の笑いとは違うな、ということだった。イギリスにはモンティー・パイソンの笑いの文化があるが、この劇もコメディであって、観客を笑わせるという目的をもった台本にもとづく。いわば笑いのための笑いである。
だが、この笑いのための笑い、日本にも当然あるが、私が今まで見てきた喜劇は、笑いのための笑いを目的とせず、劇の進行の中に深く沈潜して、そこから付随的に笑う、いうまでもなく台本には笑わせるための書き込みがあるのだが、しかし笑わせるためではなくその笑いには、もっと人生の奥底と関わる笑い、社会と切り結ぶ笑いという意味がこめられている。
私が想定しているのは、井上ひさしや飯沢匡の喜劇なのだが、そこで生ずる笑いは人生や社会や歴史と結びついたものであって、ただ笑わせるための笑いを台本に書き込んでいるわけではない。
今日の劇は、劇の進行の中でゲラゲラと笑う、いや笑わされる、それでおしまい。おそらく感想は、「オモシロカッタネ」が基調となるはずだ。もちろんそういう劇はあってもよい。私は否定しているわけではない。
私が、演劇を通して感じたいことは、人間の生活の深いところ(人生、社会、政治、歴史など)とつながる笑いなのだ。
飯沢匡『武器としての笑い』(岩波新書)という本があった。書庫にあると思うが、もう一度読んでみたいと思う。飯沢の戯曲集は、今ももっている。飯沢にとって、笑いは単なる笑いではなく、「武器」なのだ。「~としての笑い」こそ、私がみたい劇なのだ。
以前から疑問に思っていたことだが、加藤はなぜイギリス(あるいはアメリカ)の劇を日本で上演しているのか。今までいろいろな劇を見ているが、シェイクスピアは除き、英米系の劇は軽いという印象を持ってきている。すべてを見ているわけではないので、私自身の経験からしかいえないのだが、人生の大問題を直視するのではなく、人生の表層をさーっと撫でていく、そういうものが多いような気がする。メイドインロシアの劇は重厚だが、英米系はそうではない。比較すると、私は断然ロシアの劇が好きである。
さて、私は今日もドラマの進行に巻き込まれずに、冷静に見続けた。見ながら考えたことは、イギリスの笑いと日本の笑いとは違うな、ということだった。イギリスにはモンティー・パイソンの笑いの文化があるが、この劇もコメディであって、観客を笑わせるという目的をもった台本にもとづく。いわば笑いのための笑いである。
だが、この笑いのための笑い、日本にも当然あるが、私が今まで見てきた喜劇は、笑いのための笑いを目的とせず、劇の進行の中に深く沈潜して、そこから付随的に笑う、いうまでもなく台本には笑わせるための書き込みがあるのだが、しかし笑わせるためではなくその笑いには、もっと人生の奥底と関わる笑い、社会と切り結ぶ笑いという意味がこめられている。
私が想定しているのは、井上ひさしや飯沢匡の喜劇なのだが、そこで生ずる笑いは人生や社会や歴史と結びついたものであって、ただ笑わせるための笑いを台本に書き込んでいるわけではない。
今日の劇は、劇の進行の中でゲラゲラと笑う、いや笑わされる、それでおしまい。おそらく感想は、「オモシロカッタネ」が基調となるはずだ。もちろんそういう劇はあってもよい。私は否定しているわけではない。
私が、演劇を通して感じたいことは、人間の生活の深いところ(人生、社会、政治、歴史など)とつながる笑いなのだ。
飯沢匡『武器としての笑い』(岩波新書)という本があった。書庫にあると思うが、もう一度読んでみたいと思う。飯沢の戯曲集は、今ももっている。飯沢にとって、笑いは単なる笑いではなく、「武器」なのだ。「~としての笑い」こそ、私がみたい劇なのだ。
テレビを見ないので、何とも言えないが、前川前文部次官の発言をどう扱ったか、リテラが書いている。
NHKと『読売』系の日本テレビは、この問題をほとんど取り上げないんだって。なるほど、NHKと日本テレビは、ジャーナリズム精神を放棄しているということだ。『読売』が安倍政権の「忠犬」、「猟犬」になっていると先に記したが、日本テレビもそうなのだ。
いずれにしても、テレビメディアの凋落は明確だ。
http://lite-ra.com/2017/05/post-3191.html
NHKと『読売』系の日本テレビは、この問題をほとんど取り上げないんだって。なるほど、NHKと日本テレビは、ジャーナリズム精神を放棄しているということだ。『読売』が安倍政権の「忠犬」、「猟犬」になっていると先に記したが、日本テレビもそうなのだ。
いずれにしても、テレビメディアの凋落は明確だ。
http://lite-ra.com/2017/05/post-3191.html
イギリスでのテロ、まったくふつうの市民が殺された。殺された人々の非業の死を悼むと同時に、遺族たちの悲しみを思う。こうした無辜の人々を殺傷したテロリストには怒りしかない。
このテロの背景に、ISの動きがあるという。テロが起きると、ISが犯行声明をだす。未来をもたないISは、暴虐非道の行為を繰り返す。イギリスでのテロ事件の犯人は、リビア系だという。そしてリビアにはISの拠点があるという。
しかし私は思う。リビアには、カダフィ政権があった。「独裁政治」だといわれていたが、私はその中身をあまり知らない。カダフィ政権は、リビアを統一国家として支配し、福祉の面でもきわめてよい政治をしていたということも聞く。そういう政権を、どこかの国が破壊してしまった。
NATO、欧米諸国である。
同じような構図があった。イラクはフセイン政権。フセイン政権も「独裁」といわれるが、国民の生活保障は十分におこなわれていたという。そのフセイン政権は、アメリカブッシュ政権がつぶした。その後にISができた。
リビアも、イラクも、客観的にはよい国であった。それを欧米諸国がよってたかってつぶしてしまった。そして両国ともISの拠点だという。
なぜテロが起きるのか。テロの温床をつくりだしたのは欧米諸国である。
今となってはどうしようもないことかもしれない。しかし私は、「こう」なるきっかけを誰が作りだしたのか、という問題はきわめて重大だと思う。そしてその「誰」の責任を追及すべきであると思う。
何ごとも原因があって結果がある。原因をつくりだした奴は、誰だ!
その原因の結果、無辜の人々が殺された。直接の犯人に対する怒りだけではなく、私は原因をつくりだした者どもにも怒りをもつ。原因をつくりだした者たちは、ぬくぬくとした生活をしているはずだ。
このテロの背景に、ISの動きがあるという。テロが起きると、ISが犯行声明をだす。未来をもたないISは、暴虐非道の行為を繰り返す。イギリスでのテロ事件の犯人は、リビア系だという。そしてリビアにはISの拠点があるという。
しかし私は思う。リビアには、カダフィ政権があった。「独裁政治」だといわれていたが、私はその中身をあまり知らない。カダフィ政権は、リビアを統一国家として支配し、福祉の面でもきわめてよい政治をしていたということも聞く。そういう政権を、どこかの国が破壊してしまった。
NATO、欧米諸国である。
同じような構図があった。イラクはフセイン政権。フセイン政権も「独裁」といわれるが、国民の生活保障は十分におこなわれていたという。そのフセイン政権は、アメリカブッシュ政権がつぶした。その後にISができた。
リビアも、イラクも、客観的にはよい国であった。それを欧米諸国がよってたかってつぶしてしまった。そして両国ともISの拠点だという。
なぜテロが起きるのか。テロの温床をつくりだしたのは欧米諸国である。
今となってはどうしようもないことかもしれない。しかし私は、「こう」なるきっかけを誰が作りだしたのか、という問題はきわめて重大だと思う。そしてその「誰」の責任を追及すべきであると思う。
何ごとも原因があって結果がある。原因をつくりだした奴は、誰だ!
その原因の結果、無辜の人々が殺された。直接の犯人に対する怒りだけではなく、私は原因をつくりだした者どもにも怒りをもつ。原因をつくりだした者たちは、ぬくぬくとした生活をしているはずだ。
この人の顔は見たくない筆頭は、もちろん安倍であるが、次は菅官房長官である。安倍の意向を強く主張する安倍の代弁者であるが、安倍の知力が弱いからか、菅の主張も全く知的ではなく、根拠なきことばの羅列である。何せ安倍政権は正真正銘のウルトラ右翼の面々によって構成されているから、ウルトラ右翼にみられる非知性と粗暴さを併せ持っている。
日本のメディアは、読売と産経、その他のテレビ局に見られるように、そうしたウルトラ右翼と共同歩調をとっていて、醜いと言うしかない様相だ。
しかし、国際的には、そうした粗暴な言説は通用しない。
http://buzzap.jp/news/20170524-un-suga-conspiracy2/
日本のメディアは、読売と産経、その他のテレビ局に見られるように、そうしたウルトラ右翼と共同歩調をとっていて、醜いと言うしかない様相だ。
しかし、国際的には、そうした粗暴な言説は通用しない。
http://buzzap.jp/news/20170524-un-suga-conspiracy2/
庶民は、安倍政権の政治(財政)の私物化に、どういう対応をするのだろうか。こうした公然たる私物化、さらに菅官房長官ら官邸の公然たる虚偽発言を許すのか許さないのか。
加計学園問題が、正念場を迎えている。
http://lite-ra.com/2017/05/post-3188.html
加計学園問題が、正念場を迎えている。
http://lite-ra.com/2017/05/post-3188.html
希代の悪法である「共謀罪」、自由民主党、公明党、維新という三つの政党が賛成した。自由を奪う「共謀罪」を通過させる「自由民主党」は、党名をかえるべきであるとつくづくと思う。これらの政党は、日本の歴史に大きな傷を刻んだ。彼らの蛮行は、歴史にきちんと書き残さなければならない、議員の名前ももちろんである。
運用によっては、わが国の市民運動を根絶やしにすることも可能な「共謀罪」。法律通りに運用されれば、窒息しかねない警察国家の誕生である。すでに日本の三権分立はその機能をほとんど失っているから、独裁・警察国家の日本ということになる。
安倍政権の凶暴な動きは、振り返るに、小選挙区制にある。私は小選挙区制に反対であったし、今も同様である。小選挙区制に賛成投票をした者たちを私は許さない。安倍政権ようなこうした政権が成立する可能性は、小選挙区制導入前に指摘されていた。しかし当時の政治家らは導入したし、政治学者にも積極的に推進した者がいた。忘れられない政治学者は、山口二郎であるが、今は立憲デモクラシーを守れなどと主張しているが、私は彼の学者としての資質を根本から信用しない。
小選挙区制が諸悪の根源であるが、それを指摘する声があまり大きくない。「デーリー東北」が、コラムでそれを指摘している。
天鐘(5月24日)
ジェラルド・カーティスさんは知日派の米国人政治学者。衆院大分2区の選挙に密着した調査を土台にして1971年に出版した『代議士の誕生』は当時話題を集めた。10年ほど前にお会いした。その時の言葉がよみがえる
▼「日本には小選挙区制がなじまないのではないか」。選挙制度の改正で現在の小選挙区比例代表並立制が実施されたのは96年の衆院選から。既に定着した感のある制度に疑問を投げ掛けたのには驚いた
▼制度の導入には賛否両論があった。推進論者は米国や英国のように政権交代可能な二大政党の時代が訪れると説き、近代的民主主義国家にふさわしい制度だと強調した。だが、反対論も根強かった
▼政党の得票率と獲得議席数の乖離(かいり)が生じて「死に票」が増える。民意を反映すべき選挙で、それは妥当か。カーティスさんは日本人の政治意識に照らし、もろ手を挙げて小選挙区制に賛成できなかったらしい
▼政党は小選挙区に1人だけ公認候補を立てる。必然的に党首脳の影響力が強まり、候補者は公認を得るためにトップの顔色をうかがうようになる。「一強多弱」の政治状況では、政権与党におごりが生まれやすい
▼きのう組織犯罪処罰法改正案が衆院で可決された。経過を振り返ると、与党が数の力で押し切る場面があった。小選挙区制の影響がにじむ。これから審議は参院へ移る。「良識の府」らしい熟議が望まれる。
運用によっては、わが国の市民運動を根絶やしにすることも可能な「共謀罪」。法律通りに運用されれば、窒息しかねない警察国家の誕生である。すでに日本の三権分立はその機能をほとんど失っているから、独裁・警察国家の日本ということになる。
安倍政権の凶暴な動きは、振り返るに、小選挙区制にある。私は小選挙区制に反対であったし、今も同様である。小選挙区制に賛成投票をした者たちを私は許さない。安倍政権ようなこうした政権が成立する可能性は、小選挙区制導入前に指摘されていた。しかし当時の政治家らは導入したし、政治学者にも積極的に推進した者がいた。忘れられない政治学者は、山口二郎であるが、今は立憲デモクラシーを守れなどと主張しているが、私は彼の学者としての資質を根本から信用しない。
小選挙区制が諸悪の根源であるが、それを指摘する声があまり大きくない。「デーリー東北」が、コラムでそれを指摘している。
天鐘(5月24日)
ジェラルド・カーティスさんは知日派の米国人政治学者。衆院大分2区の選挙に密着した調査を土台にして1971年に出版した『代議士の誕生』は当時話題を集めた。10年ほど前にお会いした。その時の言葉がよみがえる
▼「日本には小選挙区制がなじまないのではないか」。選挙制度の改正で現在の小選挙区比例代表並立制が実施されたのは96年の衆院選から。既に定着した感のある制度に疑問を投げ掛けたのには驚いた
▼制度の導入には賛否両論があった。推進論者は米国や英国のように政権交代可能な二大政党の時代が訪れると説き、近代的民主主義国家にふさわしい制度だと強調した。だが、反対論も根強かった
▼政党の得票率と獲得議席数の乖離(かいり)が生じて「死に票」が増える。民意を反映すべき選挙で、それは妥当か。カーティスさんは日本人の政治意識に照らし、もろ手を挙げて小選挙区制に賛成できなかったらしい
▼政党は小選挙区に1人だけ公認候補を立てる。必然的に党首脳の影響力が強まり、候補者は公認を得るためにトップの顔色をうかがうようになる。「一強多弱」の政治状況では、政権与党におごりが生まれやすい
▼きのう組織犯罪処罰法改正案が衆院で可決された。経過を振り返ると、与党が数の力で押し切る場面があった。小選挙区制の影響がにじむ。これから審議は参院へ移る。「良識の府」らしい熟議が望まれる。