選挙になると、候補者は選挙民の歓心を買うためにいろいろなうそをつく。まったくやる気もないのに、それが選挙民の心を捉えることが可能なら、候補者はウソをつく。だからウソをついても平気な人が立候補する。まともな人間は、簡単な気持ちで立候補なんかしない。
今、東京都では知事選が行われているが、現在の都知事は「7つのゼロ」という政策を掲げて立候補している。あの人、「脱原発」も言っていたのではないかと思う。しかしその公約は見向きもされずに現在に至っている。都知事はそんなことどうでもいいのである。「ウソも方便」が、彼女の生き方なのであって、それを踏み台にしてのし上がることだけが彼女の生き方なのだ。
こういう人物はたくさんいる。他者の苦しみをみずからの苦しみとする共感力(empathy)もなく、ただおのれの上昇志向を満足させるためには、なにをしても、何をしなくても、まったく意に介さない。
自分自身が空虚だからこそできるのである。そういう人は多い。空虚な人という場合、宗教団体などに心を奪われている人も、同様である。みずからの判断を教団に任せてしまう、空虚としかいいようがない。あるいは、人生の途上で、上昇するために、おのれを捨て去る者もいる。日本の組織というのは、上意下達を受け入れない人は「上」にはいけないのである。
さて、『地平』8月号の「極右の躍進は「民意」の反映か?」(菊池恵介)で、「選挙結果は有権者の意識を反映する「忠実な鏡」ではない。むしろ、投票率や選挙戦略などの変数によって大きく左右される」という文に出会った。そうだろうと思う。
最近の選挙では、選挙のプロというか選挙に関わることを職業とする人たち(選挙プランナーとか・・)が出現し、そういう人の指示で選挙活動がおこなわれ、その結果当選するということが起きている。彼らは「選挙戦略」を立て、どういうことをすれば「勝つ」のかを入念に分析して選挙行動を展開する。ただ、こういう人物を雇うことができるのは、カネをもつ候補者なのだ。ということは、やはりカネを持っているかどうか、である。
自民党の裏金をみずからの懐に入れた安倍派の面々、検察庁や国税庁の差別的対応で、今のところ犯罪者にはなっていないが、彼らも選挙でつかうカネが欲しかったのだろう。
無理かもしれないが、カネに左右されず、選挙戦略にも動じず、候補者の政策をきちんと見つめ、そして選挙後も監視し続けること、これなしに社会を住みやすくすることはできない。
残念ながら、日々の生活に追われて、行政がどんなことをやっているかを知ることはなかなかたいへんである。選挙の時にはうまいことをいい、当選したら自己利益の拡大を推進する首長や議員のなんと多いことか。
私たちは、日常的に主権者であらねばならない。