今日の午後は、演劇を鑑賞した。とてもよかった。さすが青年劇場であった。
戦争末期、福岡刑務所には、詩人の尹東柱が、治安維持法により2年の懲役刑を受けていた。そこには朝鮮人が収容されていた。
ある日、看守の杉山が何ものかに殺された。誰が殺したのか?その犯人を捜すことが若い看守・渡辺に託された。渡辺は、誰が殺したのかを探る、探る中で、福岡刑務所ではどんなことが行われたのかが次第に明らかになる。いったい誰だ、杉山を殺したのは?観客も、そのような疑問をもちながら渡辺の動向を追跡する。
杉山にはふたつの顔があった。ひとつは音楽や詩、文学をたしなむということ、杉山の遺体には、詩が書かれた紙片があった。尹との交流もあった。またピアノを弾く看護婦とのピアノを介したつながりもあった。もうひとつは囚人に激しい暴力を振るっていたこと。
渡辺は、このふたつの顔を、なぜ杉山がもっているのか、理解できなかった。
その疑問は、九州帝国大学から来た医師とふたりの看護婦の行動から明らかになる。医師たちは健康な囚人たちに治療だといいながら注射をうつ。しかしその注射を打たれた囚人たちに、記憶力の減退、疲れやすくなるなどの症状が現れる。しかし医師たちは注射を打ち続ける。そのうちに囚人に死者が出始める。
医師たちは、ケガをしたり、また身体の弱い囚人たちには注射を打たなかった。医師たちは、囚人や看守に、ケガをしないように、またさせないようにと忠告した。
杉山は、しかし気づいてしまう。囚人たちの健康悪化の原因があの注射であること、ならば囚人たちを救う道は、囚人たちにケガをさせて注射をうたせないようにすること、だと。九州帝国大学の医師たちは、人体実験のために福岡刑務所に来たのだ。杉山の激しい暴力には、理由があったのだ。
その杉山が殺された。犯人は、暴力を振るわれた朝鮮人の囚人だとされた。しかし渡辺は、どうも腑に落ちない。そして、杉山を殺したのは、九州帝国大学からきた医師であること、人体実験を邪魔した杉山は、彼によって殺されたのだと推測する。
詩人である尹も注射で殺された。
劇は、そのような事件の顛末をただ明らかにするだけではない。詩、文学、音楽が人間にとっていかに重要であるのかを示す。また、事実と真実、真実はどこにあるのか、それをも考えさせようとする。
尹東柱の詩が各所に読み上げられ、ことばの美しさ、ことばの魅力が示される一方、ことばとして発せられたものが真実を隠すものとして出現することも示唆される。杉山を殺したとされた朝鮮人の囚人は処刑されたとされながら、実際は刑務所長が逃がしていた。所長は、その囚人が隠したと語っていた金塊に目が眩んでいたのであった。
表面に現れる様々な事実、しかしそれらの事実をつなぎ合わせると、まったく別の真実が現れて来る。九州帝国大学の医師は囚人たちの健康を保持するという。そして注射を打つ。ところが、注射を打たれた囚人たちが健康を損なっていく。なぜ、どうして・・・・・疑問をもって事実をつなげていくなかで、真実が浮き彫りにされていく。
疑問を持ち、事実をもとにみずから考える、そういうことをしないと無数の事実によって真実はどこかに隠され消えてしまう。真実は、たくさんの事実のうしろにある。真実をたぐりよせること、
尹は、「序詩」でこう書いている。
死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを
しかし、「恥じ入ること」を、何度でも繰り返す者たちが、いかに多いことか。そういう現実に、わたしたちは生きている。